412 000 произведений, 108 200 авторов.

Электронная библиотека книг » Yasunari Kawabata » Снежная страна (雪国) » Текст книги (страница 2)
Снежная страна (雪国)
  • Текст добавлен: 16 марта 2022, 21:31

Текст книги "Снежная страна (雪国)"


Автор книги: Yasunari Kawabata



сообщить о нарушении

Текущая страница: 2 (всего у книги 3 страниц)

細く高い鼻は少し寂しいはずだけれども、頬が生き生きと上気しているので、私はここにいますという囁きのように見えた。あの美しく血の滑らかな唇は、小さくつぼめた時も、そこに映る光をぬめぬめ動かしているようで、そのくせ唄につれて大きく開いても、また可憐にすぐ縮まるという風に、彼女の体の魅力そっくりであった。下り気味の眉の下に、目尻が上りもせず、下りもせず、わざと真直ぐ描いたような眼は、今は濡れ輝いて、幼なげだった。白粉はなく、都会の水商売で透き通ったところへ、山の色が染めたとでもいう、百合か玉葱みたいな球根を剥いた新しさの皮膚は、首までほんのり血の色が上っていて、なによりも清潔だった。

しゃんと坐り構えているのだが、いつになく娘じみて見えた。

最後に、今稽古中のをと言って、譜を見ながら新曲浦島を弾いてから、駒子は黙って撥を糸の下に挟むと、体を崩した。

急に色気がこぼれて来た。

島村はなんとも言えなかったが、駒子も島村の批評を気にする風はさらになく、素直に楽しげだった。

「君はここの芸者の三味線を聞いただけで、誰だか皆分るかね」

「そりゃ分りますわ、二十人足らずですもの。都々逸がよく分るわね、一番その人の癖が出るから」

そしてまた三味線を拾い上げると、右足を折ったままずらせて、そのふくらはぎに三味線の胴を載せ、腰は左に崩しながら、体は右に傾けて、

「小さい時こうして習ったわ」と、棹を覗き込むと、

「く、ろ、かあ、みい、の……」と、幼なげに歌って、ぽつんぽつん鳴らした。

「黒髪を最初に習ったの?」

「ううん」と、駒子はその小さい時のように、かぶりを振った。

それからは泊ることがあっても、駒子はもう強いて夜明け前に帰ろうとはしなくなった。

「駒子ちゃん」と、尻上りに廊下の遠くから呼ぶ、宿の女の子を火燵へ抱き入れて余念なく遊んでは、正午近くにその三つの子と湯殿へ行ったりした。

湯上りの髪に櫛を入れてやりながら、

「この子は芸者さえ見れば、駒子ちゃんって、尻上りに呼ぶの。写真でも、絵でも、日本髪だと、駒子ちゃん、だって。私子供好きだから、よく分るんだわ。きみちゃん、駒子ちゃんの家へ遊びに行こうね」と、立ち上ったが、また廊下の籐椅子へのどかに落ちついて、

「東京のあわて者だわ。もう辷ってるわ」

山麓のスキイ場を真横から南に見晴せる高みに、この部屋はあった。

島村も火燵から振り向いてみると、スロオプは雪が斑らなので、五六人の黒いスキイ服がずっと裾の方の畑の中で辷っていた。その段々の畑の畦は、まだ雪に隠れぬし、あまり傾斜もないから一向たわいがなかった。

「学生らしいね。日曜かしら。あんなことで面白いかね」

「でも、あれはいい姿勢で辷ってるんですわ」と、駒子はひとりごとのように、

「スキイ場で芸者に挨拶されると、おや、君かいって、お客さんは驚くんですって。真黒に雪焼けしてるから分らないの。夜はお化粧してるでしょう」

「やっぱりスキイ服を着て」

「山袴。ああ厭だ、厭だ、お座敷でね、では明日またスキイ場でってことに、もうすぐなるのね。今年は辷るの止そうかしら。さようなら。さあ、きみちゃん行こうよ。今夜は雪だわ。雪の降る前の晩は冷えるんですよ」

島村は駒子の立った後の籐椅子に坐っていると、スキイ場のはずれの坂道に、きみ子の手を引いて帰る駒子が見えた。

雲が出て、陰になる山やまだ日光を受けている山が重なり合い、その陰日向がまた刻々に変って行くのは、薄寒い眺めであったが、やがてスキイ場もふうっと陰って来た。窓の下に目を落すと、枯れた菊の籬には寒天のような霜柱が立っていた。しかし、屋根の雪の解ける樋の音は絶え間なかった。

その夜は雪でなく、霰の後は雨になった。

帰る前の月の冴えた夜、空気がきびしく冷えてから島村はもう一度駒子を呼ぶと、十一時近くだのに彼女は散歩をしようと言ってきかなかった。なにか荒々しく彼を火燵から抱き上げて、無理に連れ出した。

道は凍っていた。村は寒気の底へ寝静まっていた。駒子は裾をからげて帯に挟んだ。月はまるで青い氷のなかの刃のように澄み出ていた。

「駅まで行くのよ」

「気ちがい。往復一里もある」

「あんたもう東京へ帰るんでしょう。駅を見に行くの」

島村は肩から腿まで寒さに痺れた。

部屋へ戻ると急に駒子はしょんぼりして、火燵に深く両腕を入れてうなだれながら、いつになく湯にも入らなかった。

火燵蒲団はそのままに、つまり掛蒲団がそれと重なり、敷蒲団の裾が掘火燵の縁へ届くように、寝床が一つ敷いてあるのだが、駒子は横から火燵にあたって、じっとうなだれていた。

「どうしたんだ」

「帰るの」

「馬鹿言え」

「いいから、あんたお休みなさい。私はこうしてたいから」

「どうして帰るんだ」

「帰らないわ。夜が明けるまでここにいるわ」

「つまらん、意地悪するなよ」

「意地悪なんかしないわ。意地悪なんかしやしないわ」

「じゃあ」

「ううん、難儀なの」

「なあんだ、そんなこと。ちっともかまいやしない」と、島村は笑い出して、

「どうもしやしないよ」

「いや」

「それに馬鹿だね、あんな乱暴に歩いて」

「帰るの」

「帰らなくてもいいよ」

「つらいわ。ねえ、あんたもう東京へ帰んなさい。つらいわ」と、駒子は火燵の上にそっと顔を伏せた。

つらいとは、旅の人に深填りしてゆきそうな心細さであろうか。またはこういう時に、じっとこらえるやるせなさであろうか。女の心はそんなにまで来ているのかと、島村はしばらく黙り込んだ。

「もう帰んなさい」

「実は明日帰ろうかと思っている」

「あら、どうして帰るの?」と、駒子は目が覚めたように顔を起した。

「いつまでいたって、君をどうしてあげることも、僕には出来ないんじゃないか」

ぽうっと島村を見つめていたかと思うと、突然激しい口調で、

「それがいけないのよ。あんた、それがいけないのよ」と、じれったそうに立ち上って来て、いきなり島村の首に縋りついて取り乱しながら、

「あんた、そんなこと言うのがいけないのよ。起きなさい。起きなさいってば」と、口走りつつ自分が倒れて、物狂わしさに体のことも忘れてしまった。

それから温かく潤んだ目を開くと、

「ほんとうに明日帰りなさいね」と、静かに言って、髪の毛を拾った。

島村は次の日の午後三時で立つことにして、服に着替えている時に、宿の番頭が駒子をそっと廊下へ呼び出した。そうね、十一時間くらいにしておいてちょうだいと駒子の返事が聞えた。十六、七時間はあまり長過ぎると、番頭が思ってのことかも知れない。

勘定書を見ると、朝の五時に帰ったのは五時まで、翌日の十二時に帰ったのは十二時まで、すべて時間勘定になっていた。

駒子はコオトに白い襟巻をして、駅まで見送って来た。

またたびの実の漬物やなめこの缶詰など、時間つぶしに土産物を買っても、まだ二十分も余っているので、駅前の小高い広場を歩きながら、四方雪の山の狭い土地だなあと眺めていると、駒子の髪の黒過ぎるのが、日陰の山峡の侘しさのためにかえってみじめに見えた。

遠く川下の山腹に、どうしたのか一箇処、薄日の射したところがあった。

「僕が来てから、雪が大分消えたじゃないか」

「でも二日降れば、すぐ六尺は積るわ。それが続くと、あの電信柱の電燈が雪のなかになってしまうわ。あんたのことなんか考えて歩いてたら、電線に首をひっかけて怪我するわ」

「そんなに積るの」

「この先きの町の中学ではね、大雪の朝は、寄宿舎の二階の窓から、裸で雪へ飛びこむんですって。体が雪のなかへすぽっと沈んでしまって見えなくなるの。そうして水泳みたいに、雪の底を泳ぎ歩くんですって。ね、あすこにもラッセルがいるわ」

「雪見に来たいが正月は宿がこむだろうね。汽車は雪崩に埋れやしないか」

「あんた贅沢な人ねえ。そういう暮しばかりしてるの?」と、駒子は島村の顔を見ていたが、

「どうして髭をお伸しにならないの」

「うん。伸そうと思ってる」と、青々と濃い剃刀のあとをなでながら、自分の口の端には一筋みごとな皺が通っていて、柔かい頬をきりっと見せる、駒子もそのために買いかぶっているかもしれないと思ったが、

「君はなんだね、いつでも白粉を落すと、今剃刀をあてたばかりという顔だね」

「気持の悪い烏が鳴いてる。どこで鳴いてる。寒いわ」と、駒子は空を見上げて、両肘で胸脇を抑えた。

「待合室のストオヴにあたろうか」

その時、街道から停車場へ折れる広い道を、あわただしく駈けて来るのは葉子の山袴だった。

「ああっ、駒ちゃん、行男さんが、駒ちゃん」と、葉子は息切れしながら、ちょうど恐ろしいものを逃れた子供が母親に縋りつくみたいに、駒子の肩を掴んで、

「早く帰って、様子が変よ、早く」

駒子は肩の痛さをこらえるかのように目をつぶると、さっと顔色がなくなったが、思いがけなくはっきりかぶりを振った。

「お客さまを送ってるんだから、私帰れないわ」

島村は驚いて、

「見送りなんて、そんなものいいから」

「よくないわ。あんたもう二度と来るか来ないか、私には分りゃしない」

「来るよ、来るよ」

葉子はそんなことなにも聞えぬ風で、急き込みながら、

「今ね、宿へ電話をかけたの、駅だって言うから、飛んで来た。行男さんが呼んでる」と、駒子を引っぱるのに、駒子はじっとこらえていたが、急に振り払って、

「いやよ」

そのとたん、二、三歩よろめいたのは駒子の方であった。そして、げえっと吐気を催したが、口からはなにも出ず、目の縁が湿って、頬が鳥肌立った。

葉子は呆然としゃちこ張って、駒子を見つめていた。しかし顔つきはあまりに真剣なので、怒っているのか、驚いているのか、悲しんでいるのか、それが現われず、なにか仮面じみて、ひどく単純に見えた。

その顔のまま振り向くと、いきなり島村の手を掴んで、

「ねえ、すみません。この人を帰して下さい。帰して下さい」と、ひたむきな高調子で責め縋って来た。

「ええ、帰します」と、島村は大きな声を出した。

「早く帰れよ、馬鹿」

「あんた、なにを言うことあって」と、駒子は島村に言いながら彼女の手は葉子を島村から押し退けていた。

島村は駅前の自動車を指ざそうとすると、葉子に力いっぱい掴まれていた手先が痺れたけれども、

「あの車で、今すぐ帰しますから、とにかくあんたは先きに行ってたらいいでしょう。ここでそんな、人が見ますよ」

葉子はこくりとうなずくと、

「早くね、早くね」と、言うなり後向いて走り出したのは嘘みたいにあっけなかったが、遠ざかる後姿を見送っていると、なぜまたあの娘はいつもああ真剣な様子なのだろうと、この場にあるまじい不審が島村の心を掠めた。

葉子の悲しいほど美しい声は、どこか雪の山から今にも木魂して来そうに、島村の耳に残っていた。

「どこへ行く」と、駒子は島村が自動車の運転手を見つけに行こうとするのを引き戻して、

「いや。私帰らないわよ」

ふっと島村は駒子に肉体的な憎悪を感じた。

「君達三人の間に、どういう事情があるかしらんが、息子さんは今死ぬかもしれんのだろう。それで会いたがって、呼びに来たんじゃないか。素直に帰ってやれ。一生後悔するよ。こう言ってるうちにも、息が絶えたらどうする。強情張らないでさらりと水に流せ」

「ちがう。あんた誤解しているわ」

「君が東京へ売られて行く時、ただ一人見送ってくれた人じゃないか。一番古い日記の、一番初めに書いてある、その人の最後を見送らんという法があるか。その人の命の一番終りのペエジに、君を書きに行くんだ」

「いや、人の死ぬの見るなんか」

それは冷たい薄情とも、あまりに熱い愛情とも聞えるので、島村は迷っていると、

「日記なんかもうつけられない。焼いてしまう」と、駒子は呟くうちになぜか頬が染まって来て、

「ねえ、あんた素直な人ね。素直な人なら、私の日記をすっかり送ってあげてもいいわ。あんた私を笑わないわね。あんた素直な人だと思うけれど」

島村はわけ分らぬ感動に打たれて、そうだ、自分ほど素直な人間はないのだという気がして来ると、もう駒子に強いて帰れとは言わなかった。駒子も黙ってしまった。

宿屋の出張所から番頭が出て来て、改札を知らせた。

陰気な冬支度の土地の人が四、五人、黙って乗り降りしただけであった。

「フォウムへは入らないわ。さよなら」と、駒子は待合室の窓のなかに立っていた。窓のガラス戸はしまっていた。それは汽車のなかから眺めると、うらぶれた寒村の果物屋の煤けたガラス箱に、不思議な果物がただ一つ置き忘れられたようであった。

汽車が動くとすぐ待合室のガラスが光って、駒子の顔はその光のなかにぽっと燃え浮ぶかと見る間に消えてしまったが、それはあの朝雪の鏡の時と同じに真赤な頬であった。またしても島村にとっては、現実というものとの別れ際の色であった。

国境の山を北から登って、長いトンネルを通り抜けてみると、冬の午後の薄光りはその地中の闇へ吸い取られてしまったかのように、また古ぼけた汽車は明るい殻をトンネルに脱ぎ落して来たかのように、もう峰と峰との重なりの間から暮色の立ちはじめる山峡を下って行くのだった。こちら側にはまだ雪がなかった。

流れに沿うてやがて広野に出ると、頂上は面白く切り刻んだようで、そこからゆるやかに美しい斜線が遠い裾まで伸びている山の端に月が色づいた。野末にただ一つの眺めである。その山の全き姿を淡い夕映の空がくっきりと濃深縹色に描き出した。月はもう白くはないけれども、まだ薄色で冬の夜の冷たい冴えはなかった。鳥一羽飛ばぬ空であった。山の裾野が遮るものもなく左右に広々と延びて、河岸へ届こうとするところに、水力電気らしい建物が真白に立っていた。それは冬枯の車窓に暮れ残るものであった。

窓はスチイムの温気に曇りはじめ、外を流れる野のほの暗くなるにつれて、またしても乗客がガラスへ半ば透明に写るのだった。あの夕景色の鏡の戯れであった。東海道線などとは別の国の汽車のように使い古して色褪せた旧式の客車が三、四輛しか繋がっていないのだろう。電燈も暗い。

島村はなにか非現実的なものに乗って、時間や距離の思いも消え、虚しく体を運ばれて行くような放心状態に落ちると、単調な車輪の響きが、女の言葉に聞えはじめて来た。

それらの言葉はきれぎれに短いながら、女が精いっぱいに生きているしるしで、彼は聞くのがつらかったほどだから忘れずにいるものだったが、こうして遠ざかって行く今の島村には、旅愁を添えるに過ぎないような、もう遠い声であった。

ちょうど今頃は、行男が息を引き取ってしまっただろうか。なぜか頑固に帰らなかったが、そのために駒子は行男の死目にもあえなかっただろうか。

乗客は不気味なほど少かった。

五十過ぎの男と顔の赤い娘とが向い合って、ひっきりなしに話しこんでいるばかりだった。肉の盛り上った肩に黒い襟巻を巻いて、娘は全く燃えるようにみごとな血色だった。胸を乗り出して一心に聞き、楽しげに受け答えしていた。長い旅を行く二人のように見えた。

ところが、製糸工場の煙突のある停車場へ来ると、爺さんはあわてて荷物棚の柳行李をおろして、それを窓からプラットフォウムへ落しながら、

「まあじゃあ、御縁でもってまたいっしょになろう」と、娘に言い残して降りて行った。

島村はふっと涙が出そうになって、われながらびっくりした。それで一入、女に別れての帰りだと思った。

偶然乗り合わせただけの二人とは夢にも思っていなかったのである。男は行商人かなにかだろう。

蛾が卵を産みつける季節だから、洋服を衣桁や壁にかけて出しっぱなしにしておかぬようにと、東京の家を出がけに細君が言った。来てみるといかにも、宿の部屋の軒端に吊るした装飾燈には、玉蜀黍色の大きい蛾が六、七匹も吸いついていた。次の間の三畳の衣桁にも、小さいくせに胴の太い蛾がとまっていた。

窓はまだ夏の虫除けの金網が張ったままであった。その網へ貼りつけたように、やはり蛾が一匹じっと静まっていた。檜皮色の小さい羽毛のような触角を突き出していた。しかし翅は透き通るような薄緑だった。女の指の長さほどある翅だった。その向うに連る国境の山々は夕日を受けて、もう秋に色づいているので、この一点の薄緑はかえって死のようであった。前の翅と後の翅との重なっている部分だけは、緑が濃い。秋風が来ると、その翅は薄紙のようにひらひらと揺れた。

生きているのかしらと島村が立ち上って、金網の内側から指で弾いても、蛾は動かなかった。拳でどんと叩くと、木の葉のようにぱらりと落ちて、落ちる途中から軽やかに舞い上った。

よく見ると、その向うの杉林の前には、数知れぬ蜻蛉の群が流れていた。たんぽぽの綿毛が飛んでいるようだった。

山裾の川は杉の梢から流れ出るように見えた。

白萩らしい花が小高い山腹に咲き乱れて銀色に光っているのを、島村はまた飽きずに眺めた。

内湯から出て来ると、ロシア女の物売りが玄関に腰かけていた。こんな田舎まで来るのだろうかと、島村は見に行った。ありふれた日本の化粧品や髪飾などだった。

もう四十を出ているらしく顔は小皺で垢じみていたが、太い首から覗けるあたりが真白に脂ぎっている。

「あんたどこから来ました」と、島村が問うと、

「どこから来ました? 私、どこからですか」と、ロシア女は答えに迷って、店をかたづけながら考える風だった。

不潔な布を巻いたようなスカアトは、もはや洋装という感じも失せ、日本慣れたもので、大きい風呂敷包を背負って帰って行った。それでも靴は履いていた。

いっしょに見送っていたおかみさんに誘われて、島村も帳場へ行くと、炉端に大柄の女が後向きに坐っていた。女は裾を取って立ち上った。黒紋附を着ていた。

スキイ場の宣伝写真に、座敷着のまま木綿の山袴を穿きスキイに乗って、駒子と並んでいたので、島村も見覚えのある芸者だった。ふっくりと押出しの大様な年増だった。

宿の主人は炉に金火箸を渡して、大きい小判型の饅頭を焼いていた。

「こんなもの、お一ついかがです。祝いものでございますから、お慰みに一口召上ってみたら」

「今の人が引いたんですか」

「はい」

「いい芸者ですね」

「年期があけて、挨拶廻りに来ましてな。よく売れた子でしたけれども」

熱い饅頭を吹きながら島村が噛んでみると、固い皮は古びた匂いで少し酸っぱかった。

窓の外には、真赤に熟した柿の実に夕日があたって、その光は自在鍵の竹筒にまで射しこんで来るかと思われた。

「あんな長い、薄ですね」と、島村は驚いて坂路を見た。背負って行く婆さんの身の丈の二倍もある。そして長い穂だ。

「はい。あれは萱でございますよ」

「萱ですか。萱ですか」

「鉄道省の温泉展覧会の時に、休憩所ですか、茶室を造りまして、その屋根はここの萱で葺きましてな。なんでも東京の方がその茶室をそっくりそのままお買いになったそうでございますよ」

「萱ですか」と、島村はもう一度ひとりごとのように呟いて、

「山に咲いているのは萱なんですね。萩の花かと思った」

島村が汽車から降りて真先に目についたのは、この山の白い花だった。急傾斜の山腹の頂上近く、一面に咲き乱れて銀色に光っている。それは山に降りそそぐ秋の日光そのもののようで、ああと彼は感情を染められたのだった。それを白萩と思ったのだった。

しかし近くに見る萱の猛々しさは、遠い山に仰ぐ感傷の花とはまるでちがっていた。大きい束はそれを背負う女達の姿をすっかり隠して、坂路の両側の石崖にがさがさ鳴って行った。逞しい穂であった。

部屋へ戻ってみると、十燭燈のほの暗い次の間では、あの胴の太い蛾が黒塗りの衣桁に卵を産んで歩いていた。軒端の蛾も装飾燈にばたばたぶっつかった。

虫は昼間から鳴きしきっていた。

駒子は少し後れて来た。

廊下に立ったまま、真向きに島村を見つめて、

「あんた、なにしに来た。こんなところへなにしに来た」

「君に会いに来た」

「心にもないこと。東京の人は嘘つきだから嫌い」

そして坐りながら、声を柔かに沈めると、

「もう送って行くのはいやよ。なんともいえない気持だわ」

「ああ、今度は黙って帰るよ」

「いやよ。停車場へは行かないっていうことだわ」

「あの人はどうなった」

「むろん死にました」

「君が送りに来てくれた間にか」

「でも、それとは別よ。送るって、あんなにいやなものとは思わなかったわ」

「うん」

「あんた二月の十四日はどうしたの。嘘つき。ずいぶん待ったわよ。もうあんたの言うことなんか、あてにしないからいい」

二月の十四日には鳥追い祭がある。雪国らしい子供の年中行事である。十日も前から、村の子供等は藁沓で雪を踏み固め、その雪の板を二尺ぐらいに切り起し、それを積み重ねて、雪の堂を築く。それは三間四方に高さ一丈に余る雪の堂である。十四日の夜は家々の注連縄を貰い集めて来て、堂の前であかあかと焚火をする。この村の正月は二月の一日だから、注連縄があるのだ。そうして子供達は雪の堂の屋根に上って、押し合い揉み合い鳥追いの歌を歌う。それから子供達は雪の堂に入って燈明をともし、そこで夜明しする。そしてもう一度、十五日の明け方に雪の堂の屋根で、鳥追いの歌を歌うのである。

ちょうどその頃は雪が一番深い時であろうから、島村は鳥追いの祭を見に来ると約束しておいたのだった。

「私二月は実家へ行ったのよ。商売を休んでたのよ。きっといらっしゃると思って、十四日に帰って来たんだわ。もっとゆっくり看病して来ればよかった」

「誰か病気」

「お師匠さんが港へ行ってて、肺炎になったんですの。私がちょうど実家にいたところへ電報が来て、看病したんですわ」

「よくなったの?」

「いいえ」

「それは悪かったね」と、島村は約束を守らなかったのを詫びるように、また師匠の死を悔むように言うと、

「ううん」と、駒子は急におとなしくかぶりを振って、ハンカチで机を払いながら、

「ひどい虫」

ちゃぶ台から畳の上まで細かい羽虫が一面に落ちて来た。小さい蛾が幾つも電燈を飛び廻っていた。

網戸にも外側から幾種類とも知れぬ蛾が点々ととまって、澄み渡った月明りに浮んでいた。

「胃が痛い、胃が痛い」と、駒子は両手を帯の間へぐっと挿し入れると、島村の膝へ突っ伏した。

襟をすかした白粉の濃いその首へも、蚊より小さい虫がたちまち群がり落ちた。見る間に死んで、そこで動かなくなるのもあった。

首のつけ根が去年より太って脂肪が乗っていた。二十一になったのだと、島村は思った。

彼の膝に生温かい湿りけが通って来た。

「駒ちゃん、椿の間へ行ってごらんて、帳場でにやにや笑ってるのよ。好かないわ。ねえさんを汽車で送って来て、帰って楽々寝ようと思ってると、ここからかかって来てるって言うんでしょう。大儀だからよっぽど止そうと思ったわ。昨夜飲み過ぎた。ねえさんの送別会だったの。お帳場で笑ってばかりいて、あんただった。一年ぶりねえ。一年に一度来る人なの?」

「あの饅頭を僕も食ったよ」

「そう?」と、駒子は胸を起した。島村の膝に押しつけていたところだけが赤らんで、急に幼なじみた顔に見えた。

次の次の停車場の町まで、あの年増芸者を見送って来たのだと言った。

「つまらないわ。前はなんでもすぐ纏まったけれど、だんだん個人主義になって銘々がばらばらなの。ここもずいぶん変ったわ。気性の合わない人が殖えるばかりなの。菊勇ねえさんがいなくなると、私は寂しいんです。なんでもあの人が中心だったから。売れることも一番で六百本を欠かすことはないから、うちでも大事にされてたんだけれど」

その菊勇は年期があけて生れた町へ帰るというが、結婚するのか、なにか水商売を続けるのかと島村が問うと、

「ねえさんも可哀想な人なの。お嫁入りは前に一度失敗して、ここへ来たのよ」と、駒子はその後を口籠って、とかくためらってから、月明りの段々畑の下を眺めて、

「あすこの坂の途中に、建ったばかりの家があるでしょう」

「菊村って小料理屋?」

「ええ。あの店へ入るはずだったのを、ねえさんの心柄でふいにしちゃったんだわ。騒ぎだったわね、せっかく自分のために家を建てさせておいて、いざ入るばかりになった時に、蹴っちゃったんですもの。好きな人が出来て、その人と結婚するつもりだったんだけれど、騙されてたのね。夢中になると、あんなかしらね。その相手に逃げられたからって、今から元の鞘におさまって、店を貰いますというわけにもいかないし、みっともなくてこの土地にはいられないし、またよそで稼ぎ直すんですわ。考えると可哀想なんだわ。私達もよく知らなかったけれど、いろんな人があったのね」

「男がね。五人もあったのかい」

「そうね」と、駒子は含み笑いをしたが、ふっと横を向いた。

「ねえさんも弱い人だったんだわ。弱虫だ」

「しかたがないさ」

「だってそうじゃないの。好かれたって、なんですか」

うつ向いたまま簪で頭を掻いた。

「今日送って行って、せつなかったわ」

「それでせっかくの店はどうしたの」

「本妻が来てやってるわ」

「本妻が来てやってるとは面白い」

「だって、開業の支度もすっかり出来てたんですもの。そうでもするよりしかたがないでしょう。子供もみんなつれて、本妻が移って来たわ」

「うちはどうしたんだね」

「お婆さんを一人残してあるんですって。百姓なんですけれど、主人がこんなこと好きなのね。それは面白い人」

「道楽者だね。もういい年なんだろう」

「若いのよ。三十二、三かしら」

「へええ。それじゃ本妻よりお妾さんの方が年上になるところだったね」

「おない年の二十七ね」

「菊村というのは、菊勇の菊だろう。それを本妻がやってるのかね」

「一度出した看板を変えるわけにもいかないからでしょう」

島村が襟を掻き合わせると、駒子は立って行って窓をしめながら、

「ねえさんはあんたのこともよく知ってた。いらしたわねって、今日も言ってくれた」

「挨拶に来てたのを帳場で見かけたよ」

「なんか言った」

「言やしないよ」

「あんた私の気持分る?」と、駒子は今しめたばかりの障子をさっとあけて、窓に体を投げつけるように腰かけた。島村はしばらくしてから、

「星の光が東京とまるでちがうね。いかにも宙に浮いてるね」

「月夜だからそうでもないわ。今年の雪はひどかったわ」

「汽車がたびたび不通だったらしいね」

「ええ、こわいくらい。自動車の通うのが、例年より一月も後れて、五月だったわ。スキイ場に売店があるでしょう、あの二階を雪崩が突き抜けて、下にいた人はそんなこと知らなくて、変な音がするから、台所で鼠が騒いだんだろうと行ってみてなんともないから、二階へあがると雪だらけじゃないの。雨戸もなにも雪に持って行かれちゃってるのよ。表層雪崩なんだけれど、それをラジオで大きく放送したものよ。恐ろしがってスキイ客が来やしないの。今年はもう乗らないつもりで、去年の暮にスキイも人にくれちゃったのよ。それでも二、三度辷ったかしら。私変ってない?」

「お師匠さんが死んで、どうしてたんだ」

「ひとのことなんか、ほっときなさい。二月にはちゃんとここへ来て待ってたわ」

「港へ帰ったんなら、そうと手紙をよこせばいいじゃないか」

「いやよ。そんなみじめな、いやよ。奥さんに見られてもいいような手紙なんか書かないわ。みじめだわ。気兼ねして嘘つくことないわ」

駒子は早口に叩きつけるような激しさだった。島村はうなずいた。

「あんたそんな虫のなかに坐ってないで、電燈を消すといいわ」

女の耳の凹凸もはっきり影をつくるほど月は明るかった。深く射しこんで畳が冷たく青むようであった。

駒子の唇は美しい蛭の輪のように滑らかであった。

「いや、帰して」

「相変らずだね」と、島村は首を反って、どこかおかしいようで少し中高な円顔を、真近に眺めた。

「十七でここへ来た時とちっとも変らないって、みんなそう言うわ。生活だって、それはおんなじなんですもの」

北国の少女の赤みがまだ濃く残っている。芸者風な肌理に月光が貝殻じみたつやを出した。

「でも、うちは変ったの御存じ?」

「お師匠さんが死んでね? もうあのお蚕さんの部屋にはいないんだね。今度のうちほんとうの置屋かい?」

「ほんとうの置屋って? そうね、店で駄菓子や煙草を売ってますわ。やっぱり私一人しかいないの。今度はほんとうの奉公だから、夜晩くなると、蝋燭をともして本を読むわ」

島村が肩を抱いて笑うと、

「メエトルだから、電気を無駄づかいしちゃ悪いわ」

「そうかね」

「でも、これが奉公かしらと思うことがあるくらい、うちの人はずいぶん大事にしてくれるのよ。子供が泣いたりすると、おかみさんが遠慮して表へ負ぶって出て行くわ。なんの不足もないけれど、寝床の曲ってるのだけはいやね。帰りがおそいと敷いといてくれるのよ。敷蒲団がきちんと重なってなかったり、敷布がゆがんでたりでしょう。そんなのを見ると、情なくなって来るのよ。そうかって、自分で敷き直すのは悪いわ。親切がありがたいから」

「君が家を持ったら苦労だね」

「皆そう言うわ。性分ね。うちに小さい子供が四人あるから散らかって大変なのよ。私はそれを一日かたづけて歩いてるわ。かたづける後から、どうせ散らかすのは分ってるんだけれど、気になってほっとけないんです。境遇の許す範囲で、これでも私、きれいに暮したいとは思ってるんですよ」

「そうだね」

「あんた私の気持分る?」

「分るよ」

「分るなら言ってごらんなさい。さあ、言ってごらんなさい」と、駒子は突然思い迫った声で突っかかって来た。

「それごらんなさい。言えやしないじゃないの。嘘ばっかり。あんたは贅沢に暮して、いい加減な人だわ。分りゃしない」

そうして声を沈ますと、

「悲しいわ。私が馬鹿。あんたもう明日帰んなさい」

「そう君のように問いつめたって、はっきり言えるもんじゃない」

「なにが言えないの。あんたそれがいけないのよ」と、駒子はまだ術なげに声をつまらせたが、じっと目をつぶると自分というものを島村がなんとなく感じていてくれるのだろうかと、それは分ったらしい素振りを見せて、

「一年に一度でいいからいらっしゃいね。私のここにいる間は、一年に一度、きっといらっしゃいね」

年期は四年だと言った。

「実家へ行く時は、また商売に出るなんて夢にも思わなくて、スキイも人にくれて行っちゃったのに、出来たことと言えば、煙草を止めただけだわ」

「そうそう、前にはずいぶん吹かしてたね」

「ええ。お座敷でお客さんのくれるのを、そっと袂へ入れるから、帰ると何本も出て来ることがあるわ」

「四年はしかし長いね」

「すぐ経ってしまいますわ」

「温かい」と、島村は駒子が近づいて来るままに抱き上げた。

「温かいのは生れつきよ」

「もう朝晩は寒くなっているんだね」

「私がここへ来てから五年だもの。初めは心細くて、こんなところに住むのかと思ったわ。汽車の開通前は寂しかったなあ。あんたが来はじめてからだって、もう三年だわ」

その三年足らずの間に三度来たが、そのたびごとに駒子の境遇の変っていることを、島村は思っていた。

轡虫が急に幾匹も鳴き出した。

「いやねえ」と、駒子は彼の膝から立ち上った。

北風が来て網戸の蛾がいっせいに飛んだ。

黒い眼を薄く開いていると見えるのは濃い睫毛を閉じ合わせたのだと、島村はもう知っていながら、やはり近々とのぞきこんでみた。

「煙草を止めて、太ったわ」

腹の脂肪が厚くなっていた。

離れていてはとらえ難いものも、こうしてみるとたちまちその親しみが還って来る。

駒子はそっと掌を胸へやって、

「片方が大きくなったの」

「馬鹿。その人の癖だね、一方ばかり」

「あら。いやだわ。嘘、いやな人」と、駒子は急に変った。これであったと島村は思い出した。

「両方平均にって、今度からそう言え」

「平均に? 平均にって言うの?」と、駒子は柔かに顔を寄せた。

この部屋は二階であるが、家のぐるりを蟇が鳴いて廻った。一匹ではなく、二匹も三匹も歩いているらしい。長いこと鳴いていた。

内湯から上って来ると、駒子は安心しきった静かな声でまた身上話をはじめた。

ここで初めての検査の時に、半玉の頃と同じだと思って、胸だけ脱ぐと笑われたこと、それから泣き出してしまったこと、そんなことまで言った。島村に問われるままに、

「私は実に正確なの、二日ずつきちんと早くなって行くの」

「だけどさ、お座敷へ出るのに困るというようなことはないだろう」

「ええ、そんなこと分るの?」

温まるので名高い温泉に毎日入っているし、旧温泉と新温泉との間をお座敷通いすれば一里も歩くわけになるし、夜更しも少い山暮しだから、健康な固太りだけれども、芸者などにありがちの少うし腰つぼまりだった。横に狭くて縦に厚い。そのくせ島村が遠く惹かれて来るような女であることなのは、哀れ深いものがあった。

「私のようなのは子供が出来ないのかしらね」と、駒子は生真面目にたずねた。一人の人とつきあってれば、夫婦とおなじではないかと言うのだった。

駒子にそういう人のあるのを島村は初めて知った。十七の年から五年続いていると言う。島村が前から訝しく思っていた、駒子の無知で無警戒なのはそれで分った。

半玉で受け出してくれた人に死に別れて、港へ帰るとすぐにその話があったためか、駒子は初めから今日までその人が厭で、いつまでも打ちとけられないと言う。

「五年も続けば、上等の方じゃないか」

「別れる機会は二度もあったのよ。ここで芸者に出る時と、お師匠さんのうちから今のうちへ変る時と。でも、意志が弱いんだわ。ほんとうに意志が弱いんだわ」

その人は港にいると言う。その町に置くのは都合が悪いので、師匠がこの村へ来るついでに預けてよこしたのだと言う。親切な人だのに、一度も生き身をゆるす気になれないのは、悲しいと言う。年がちがうので、たまにしか来ないと言う。

「どうしたら切れるか、よっぽど不行跡を働こうと時々思うのよ。ほんとうに思うんですよ」

「不行跡はよくない」

「不行跡は出来ない。やっぱり性分でだめだわ。私は自分の生きてる体が可愛いわ。しようとおもえば、四年の年期が二年になるんだけれど、無理をしないの。体が大事だから。無理すれば、ずいぶん線香が出るだろうな。年期だから、主人に損をかけなければいいのよ。元金が月に割って幾ら、利子が幾ら、税金が幾ら、それに自分の食い扶持を勘定に入れて、分ってるでしょう。それ以上あまり無理して働くこともないわ。めんどくさい座敷でいやなら、さっさと帰っちまうし、おなじみの名指しでなければ、宿でも夜おそくかけてよこさないわ。自分で贅沢する分にはきりがないけれども、気随に稼いでいて、それですむんですもの。もう元金を半分以上返したわ。まだ一年にならないわ。それでもお小遣がなにやかやと月三十円はかかるわね」

月に百円稼げばいいのだと言った。先月一番少い人で三百本の六十円だと言った。駒子は座敷数が九十幾つで一番多く、一座敷で一本が自分の貰いになるので、主人には損だが、どんどん廻るのだと言った。借金を殖やして年期の延びた人は、この温泉場には一人もないと言った。

翌る朝、駒子はやはり早くて、

「お花のお師匠さんとこのお部屋を掃除している夢を見て、目が覚めちゃったの」

窓ぎわへ持ち出した鏡台には紅葉の山が写っていた。鏡のなかにも秋の日ざしが明るかった。

駄菓子屋の女の子が駒子の着替えを持って来た。

「駒ちゃん」と、悲しいほど澄み通る声で襖の陰から呼ぶ、あの葉子ではなかった。

「あの娘さんはどうした」

駒子はちらっと島村を見て、

「お墓参りばかりしてるわ。スキイ場の裾にほら、蕎麦の畑があるでしょう、白い花の咲いてる。その左に墓が見えるじゃないの?」

駒子が帰ってから島村も村へ散歩に行ってみた。

白壁の軒下で真新しい朱色のネルの山袴を履いて、女の子がゴム鞠を突いているのは、実に秋であった。

大名が通った頃からであろうと思われる、古風な作りの家が多い。廂が深い。二階の窓障子は高さ一尺ぐらいしかなくて長細い。軒端に萱の簾を垂れている。

土坡の上に糸薄を植えた垣があった。糸薄は桑染色の花盛りであった。その細い葉が一株ずつ美しく噴水のような形に拡がっていた。

そうして道端の日向に藁莚を敷いて小豆を打っているのは葉子だった。

乾いた豆幹から小豆が小粒の光のように踊り出る。

手拭をかぶっているので島村が見えないのか、葉子は山袴の膝頭を開いて小豆を叩きながら、あの悲しいほど澄み通って木魂しそうな声で歌っていた。

蝶々とんぼやきりぎりす

お山でさえずる

松虫鈴虫くつわ虫

杉の樹をつと離れた、夕風のなかの烏が大きい、という歌があるが、この窓から見下す杉林の前には、今日も蜻蛉の群が流れている。夕が近づくにつれ、彼等の游泳はあわただしく速力を早めて来るようだった。

島村は出発の前に駅の売店でここらあたりの山案内書の新刊を見つけて買って来た。それをとりとめなく読んでいると、この部屋から見晴らす国境の山々、その一つの頂近くは、美しい池沼を縫う小路で、一帯の湿地にいろんな高山植物が花咲き乱れ、夏ならば無心に赤蜻蛉が飛び、帽子や人の手や、また時には眼鏡の縁にさえとまるのどかさ、虐げられた都会の蜻蛉とは雲泥の差であると書いてあった。

しかし目の前の蜻蛉の群は、なにか追いつめられたもののように見える。暮れるに先立って黒ずむ杉林の色にその姿を消されまいとあせっているもののように見える。

遠い山は西日を受けると、峰から紅葉して来ているのがはっきり分った。

「人間なんて脆いもんね。頭から骨まで、すっかりぐしゃぐしゃにつぶれてたんですって。熊なんか、もっと高い岩棚から落ちたって、体はちっとも傷がつかないそうよ」と、今朝駒子が言ったのを島村は思い出した。岩場でまた遭難があったという、その山を指ざしながらであった。

熊のように硬く厚い毛皮ならば、人間の官能はよほどちがったものであったにちがいない。人間は薄く滑らかな皮膚を愛し合っているのだ。そんなことを思って夕日の山を眺めていると島村は感傷的に人肌がなつかしくなって来た。

「蝶々とんぼやきりぎりす……」というあの歌を、早い夕飯時に下手な三味線で歌っている芸者があった。

山の案内書には、登路、日程、宿泊所、費用などが、簡単に書いてあるだけで、かえって空想を自由にしたし、島村が初めて駒子を知ったのも、残雪の肌に新緑の萌える山を歩いて、この温泉村へ下りて来た時のことだったし、自分の足跡も残っている山を、こうして眺めていると、今は秋の登山の季節であるから、山に心が誘われて行くのだった。無為徒食の彼には、用もないのに難儀して山を歩くなど徒労の見本のように思われるのだったが、それゆえにまた非現実的な魅力もあった。

遠く離れていると、駒子のことがしきりに思われるにかかわらず、さて近くに来てみると、なにか安心してしまうのか、今はもう彼女の肉体も親し過ぎるのか、人肌がなつかしい思いと、山に誘われる思いとは、同じ夢のように感じられるのだった。昨夜駒子が泊って行ったばかりだからでもあろう。しかし静かななかに一人坐っていては、呼ばなくても駒子も来そうなものだと、心待ちするよりしかたがなかったが、ハイキングの女学生達の若々しく騒ぐ声が聞えているうちに眠ろうと思って、島村は早くから寝た。

やがて時雨が通るらしかった。

翌る朝目をあくと、駒子が机の前にきちんと坐って本を読んでいた。羽織も銘仙の不断着だった。

「目が覚めた?」と、彼女は静かに言って、こちらを見た。

「どうしたんだい」

「目が覚めた?」

知らぬ間に来て泊っていたのかと疑って、島村が自分の寝床を見廻しながら、枕もとの時計を拾うとまだ六時半だった。

「早いんだね」

「だって、女中さんがもう火を入れに来たわよ」

鉄瓶は朝らしい湯気を立てていた。

「起きなさいよ」と、駒子は立って来て、彼の枕もとに坐った。ひどく家庭の女めいた素振りであった。島村は伸びをしたついでに、女の膝の上の手をつかんで小さい指の撥胼胝を弄びながら、

「眠いよ。夜があけたばかりじゃないか」

「一人でよく眠れた?」

「ああ」

「あんた、やっぱり髭をお伸しにならなかったのね」

「そうそう、この前別れる時、そんなこと言ってたね。髭を生やせって」

「どうせ忘れてたって、いいわよ。いつも青々ときれいに剃ってらっしゃるのね」

「君だって、いつでも白粉を落すと、今剃刀をあてたばかりという顔だよ」

「頬っぺたが、またお太りになったんじゃないかしら。色が白くて、眠ってらっしゃるところは髭がないと変だわ。円いわ」

「柔和でいいだろう」

「頼りないわ」

「いやだね。じろじろ見てたんだね」

「そう」と、駒子はにっこりうなずいてその微笑から急に火がついたように笑い出すと、知らず識らず彼の指を握る手にまで力が入って、

「押入に、隠れたのよ。女中さんちっとも気がつかないで」

「いつさ。いつから隠れてたんだ」

「今じゃないの? 女中さんが火を持って来た時よ」

そして思い出し笑いが止まらぬ風だったが、ふと耳の根まで赤らめると、それを紛らわすように掛蒲団の端を持って煽ぎながら、

「起きなさい。起きてちょうだい」

「寒いよ」と、島村は蒲団を抱えこんで、

「宿じゃもう起きてるのかい」

「知らないわ。裏から上って来たのよ」

「裏から?」

「杉林のところから掻き登って来たのよ」

「そんな路があるの?」

「路はないけれど、近いわ」

島村は驚いて駒子を見た。

「私が来たのを誰も知らないわ。お勝手に音がしてたけれど、玄関はまだしまってるんでしょう」

「君はまた早起きなんだね」

「昨夜眠れなかったのよ」

「時雨があったの知ってる?」

「そう? あすこの熊笹が濡れてたの、それでなのね。帰るわね。もう一寝入り、お休みなさいね」

「起きるよ」と、島村は女の手を握ったまま、勢いよく寝床を出た。そのまま窓へ行って、女が掻き登って来たというあたりを見下すと、灌木類の茂りの裾が猛々しく拡がっていた。それは杉林に続く丘の中腹で、窓のすぐ下の畑には、大根、薩摩芋、葱、里芋など、平凡な野菜ながら朝の日を受けて、それぞれの葉の色のちがいが初めて見るような気持であった。

湯殿へ行く廊下から、番頭が泉水の緋鯉に餌を投げていた。

「寒くなったとみえて、食いが悪くなりました」と、番頭は島村に言って、蚕の蛹を干し砕いた餌が水に浮んでいるのを、しばらく眺めていた。

駒子が清潔に坐っていて、湯から上って来た島村に、

「こんな静かなところで、裁縫してたら」

部屋は掃除したばかりで、少し古びた畳に秋の朝日が深く差しこんでいた。

「裁縫が出来るのか」

「失礼ね。きょうだいじゅうで、一番苦労したわ。考えてみると、私の大きくなる頃が、ちょうどうちの苦しい時だったらしいわ」と、ひとりごとのようだったが、急に声をはずませて、

「駒ちゃんいつ来たって、女中さんが変な顔してたわ。二度も三度も押入に隠れることは出来ないし、困っちゃった。帰るわね。いそがしいのよ。眠れなかったから、髪を洗おうと思ったの。朝早く洗っとかないと、乾くのを待って、髪結いさんへ行って、昼の宴会の間に合わないのよ。ここにも宴会があるけれど、昨夜になってしらせてよこすんだもの。よそを受けちゃった後で、来れやしない。土曜日だから、とてもいそがしいのよ。遊びに来れないわ」

そんなことを言いながら、しかし駒子は立ち上りそうもなかった。

髪を洗うのは止めにして、島村を裏庭へ誘い出した。さっきそこから忍んで来たのか、渡廊下の下に駒子の濡れた下駄と足袋があった。

彼女が掻き登ったという熊笹は通れそうもないので、畑沿いに水音の方へ下りて行くと、川岸は深い崖になっていて、栗の木の上から子供の声が聞えた。足もとの草のなかにも毬が幾つも落ちていた。駒子は下駄で踏みにじって、実を剥き出した。みんな小粒の栗だった。

向岸の急傾斜の山腹には萱の穂が一面に咲き揃って、眩しい銀色に揺れていた。眩しい色と言っても、それは秋空を飛んでいる透明な儚さのようであった。

「あすこへ行ってみようか、君のいいなずけの墓が見える」

駒子はすっと伸び上って島村をまともに見ると、一握りの栗をいきなり彼の顔に投げつけて、

「あんた私を馬鹿にしてんのね」

島村は避ける間もなかった。額に音がして、痛かった。

「なんの因縁があって、あんた墓を見物するのよ」

「なにをそう向きになるんだ」

「あれだって、私には真面目なことだったんだわ。あんたみたいに贅沢な気持で生きてる人とちがうわ」

「誰が贅沢な気持で生きてるもんか」と、彼は力なく呟いた。

「じゃあ、なぜいいなずけなんて言うの? いいなずけでないってことは、この前よく話したじゃないの? 忘れてんのね」

島村は忘れていたわけではない。

「お師匠さんがね、息子さんと私といっしょになればいいと、思った時があったかもしれないの。心のなかだけのことで、口には一度も出しゃしませんけれどね。そういうお師匠さんの心のうちは、息子さんも私も薄々知ってたの。だけど、二人は別になんでもなかった。別れ別れに暮して来たのよ。東京へ売られて行く時、あの人がたった一人見送ってくれた」

駒子がそう言ったのを覚えている。

その男が危篤だというのに、彼女は島村のところへ泊って、

「私の好きなようにするのを、死んで行く人がどうして止められるの?」と、身を投げ出すように言ったこともあった。

まして、駒子がちょうど島村を駅へ見送っていた時に、病人の様子が変ったと、葉子が迎えに来たにかかわらず、駒子は断じて帰らなかったために、死目にも会えなかったらしいということもあったので、なおさら島村はその行男という男が心に残っていた。

駒子はいつも行男の話を避けたがる。いいなずけではなかったにしても、彼の療養費を稼ぐために、ここで芸者に出たというのだから、「真面目なこと」だったにちがいない。

栗をぶっつけられても、腹を立てる風がないので、駒子は束の間訝しそうであったが、ふいと折れ崩れるように縋って来て、

「ねえ、あんた素直な人ね。なにか悲しいんでしょう」

「木の上で子供が見てるよ」

「分らないわ、東京の人は複雑で。あたりが騒々しいから、気が散るのね」

「なにもかも散っちゃってるよ」

「今に命まで散らすわよ。墓を見に行きましょうか」

「そうだね」

「それごらんなさい。墓なんかちっとも見たくないんじゃないの?」

「君の方でこだわってるだけだよ」

「私は一度も参ったことがないから、こだわるのよ、ほんとうよ、一度も。今はお師匠さんもいっしょに埋まってるんですから、お師匠さんにはすまないと思うけれど、いまさら参れやしない。そんなことしらじらしいわ」

「君の方がよっぽど複雑だね」

「どうして? 生きた相手だと、思うようにはっきりも出来ないから、せめて死んだ人にははっきりしとくのよ」

静けさが冷たい滴となって落ちそうな杉林を抜けて、スキイ場の裾を線路伝いに行くと、すぐに墓場だった。田の畦の小高い一角に、古びた石碑が十ばかりと地蔵が立っているだけだった。貧しげな裸だった。花はなかった。

しかし、地蔵の裏の低い木蔭から、不意に葉子の胸が浮び上った。彼女もとっさに仮面じみた例の真剣な顔をして、刺すように燃える目でこちらを見た。島村はこくんとおじぎをするとそのまま立ち止った。

「葉子さん早いのね。髪結いさんへ私……」と、駒子が言いかかった時だった。どっと真黒な突風に吹き飛ばされたように、彼女も島村も身を竦めた。

貨物列車が轟然と真近を通ったのだ。

「姉さあん」と、呼ぶ声が、その荒々しい響きのなかを流れて来た。黒い貨物の扉から、少年が帽子を振っていた。

「佐一郎う、佐一郎う」と、葉子が呼んだ。

雪の信号所で駅長を呼んだ、あの声である。聞えもせぬ遠い船の人を呼ぶような、悲しいほど美しい声であった。

貨物列車が通ってしまうと、目隠しを取ったように、線路向うの蕎麦の花が鮮かに見えた。赤い茎の上に咲き揃って実に静かであった。

思いがけなく葉子に会ったので、二人は汽車の来るのも気がつかなかったほどだったが、そのようななにかも、貨物列車が吹き払って行ってしまった。

そして後には、車輪の音よりも葉子の声の余韻が残っていそうだった。純潔な愛情の木魂が返って来そうだった。

葉子は汽車を見送って、

「弟が乗っていたから、駅へ行ってみようかしら」

「だって、汽車は駅に待ってやしないわ」と、駒子が笑った。

「そうね」

「私ね、行男さんのお墓参りはしないことよ」

葉子はうなずいて、ちょっとためらっていたが、墓の前にしゃがんで手を合わせた。

駒子は突っ立ったままであった。

島村は目をそらして地蔵を見た。長い顔の三面で、胸で合掌した一組の腕のほかに、右と左に二本ずつの手があった。

「髪を結うのよ」と、駒子は葉子に言って、畦道を村の方へ行った。

土地の言葉でハッテという、樹木の幹から幹へ、竹や木の棒を物干竿のような工合に幾段も結びつけて、稲を懸けて干す、そして稲の高い屏風を立てたように見えるのだが――島村達が通る路ばたにも、百姓がそのハッテを作っていた。

山袴の腰をひょいと捻って、娘が稲の束を投げ上げると、高くのぼった男が器用に受け取って、扱くように振り分けては、竿に懸けていった。物慣れて無心の動きが調子よく繰り返されていた。

ハッテの垂れ穂を、貴いものの目方を計るように駒子は掌に受けて、ゆさゆさ揺り上げながら、

「いい実り、触っても気持のいい稲だわ。去年とは大変なちがいだわ」と、稲の感触を楽しむように目を細めた。その上の空低く群雀が乱れ飛んだ。

「田植人夫賃金協定。九十銭、一日賃金賄附。女人夫は右の六分」というような古い貼紙が道端の壁に残っていた。

葉子の家にもハッテがあった。街道から少し凹んだ畑の奥に建っているのだが、その庭の左手、隣家の白壁沿いの柿の並木に、高いハッテが組んであった。そしてまた畑と庭との境にも、つまり柿の木のハッテとは直角に、やはりハッテで、その稲の下をくぐる入口が片端に出来ていた。莚ならぬ稲で、ちょうど小屋掛けしたようである。畑は闌れたダリヤと薔薇の手前に里芋が逞しい葉を拡げていた。緋鯉の蓮池はハッテの向うで見えない。

去年駒子がいたあの蚕の部屋の窓も隠れていた。

葉子は怒ったように頭を下げると、稲穂の入口を帰って行った。

「この家に一人でいるのかい」と、島村はその少し前屈みの後姿を見送っていたが、

「そうでもないでしょう」と、駒子は突慳貪に言った。

「ああ厭だ。もう髪を結うの止めた。あんたがよけいなこと言うから、あの人の墓参りを邪魔しちゃった」

「墓で会いたくないって、君の意地っ張りだろう」

「あんたが私の気持を分らないのよ。後で暇があったら、髪を洗いに行きますわ。晩くなるかもしれないけれど、きっと行くわ」

そして夜なかの三時であった。

障子を押し飛ばすようにあける音で島村が目を覚ますと、胸の上へばったり駒子が長く倒れて、

「来ると言ったら、来たでしょ。ねえ、来ると言ったら来たでしょ」と、腹まで波打つ荒い息をした。

「ひどく酔ってんだね」

「ねえ、来ると言ったら来たでしょ」

「ああ、来たよ」

「ここへ来る道、見えん。見えん。ふう、苦しい」

「それでよく坂が登れたね」

「知らん。もう知らん」と、駒子はうんと仰反って転がるものだから、島村は重苦しくなって起き上ろうとしたが、不意に起されたことゆえふらついて、また倒れると、頭が熱いものに載って驚いた。

「火みたいじゃないか、馬鹿だね」

「そう? 火の枕、火傷するよ」

「ほんとだ」と、目を閉じているとその熱が頭に沁み渡って、島村はじかに生きている思いがするのだった。駒子の激しい呼吸につれて、現実というものが伝わって来た。それはなつかしい悔恨に似て、ただもう安らかになにかの復讐を待つ心のようであった。

「来ると言ったら来たでしょ」と、駒子はそれを一心に繰り返して、

「これで来たから、帰る。髪を洗うのよ」

そして這い上ると、水をごくごく飲んだ。

「そんなんで帰れやしないよ」

「帰る。連れがあんのよ。お湯道具、どこへ行った」

島村が立ち上って電燈をつけると、駒子は両手で顔を隠して畳に突っ伏してしまった。

「いやよ」

元禄袖の派手なめりんすの袷に黒襟のかかった寝間着で伊達巻をしめていた。それで襦袢の襟が見えず、素足の縁まで酔いが出て、隠れるように身を縮めているのは変に可愛く見えた。

湯道具を投げ出したとみえ、石鹸や櫛が散らばっていた。

「切ってよ、鋏持って来たから」

「なにを切るんだ」

「これをね」と、駒子は髪のうしろへ手をやって、

「うちで元結を切ろうとしたんだけれど、手が言うことをきかないのよ。ここへ寄って切って貰おうと思って」

島村は女の髪を掻き分けて元結を切った。ひとところが切れるたびに、駒子は髪を振り落しながら少し落ちついて、

「今幾時頃なの」

「もう三時だよ」

「あら、そんな? 地髪を切っちゃ駄目よ」

「ずいぶん幾つも縛ってるんだね」

彼の掴み取る髢の根の方がむっと温かかった。

「もう三時なの? 座敷から帰って、倒れたまま眠ったらしいわ。お友達と約束しといたから誘ってくれたのよ。どこへ行ったかと思ってるわ」

「待ってるのか」

「共同湯に入ってるわ、三人。六座敷あったんだけれど四座敷しか廻れなかった。来週は紅葉でいそがしいわ。どうもありがとう」と、解けた髪を梳きながら顔を上げると、眩しそうに含み笑いをして、

「知らないわ、ふふふ、おかしいな」

そして術なげに髢を拾った。

「お友達に悪いから行くわね。帰りにはもう寄らないわ」

「道が見えるか」

「見える」

しかし裾を踏んでよろめいた。

朝の七時と夜なかの三時と、一日に二度も異常な時間に暇を盗んで来たのだと思うと、島村はただならぬものが感じられた。

紅葉を門松のように、宿の番頭達が門口へ飾りつけていた。観楓客の歓迎である。

生意気な口調で指図しているのは、渡り鳥でさと自ら嘲るように言う臨時雇いの番頭だった。新緑から紅葉までの間を、ここらあたりの山の湯で働き、冬は熱海や長岡などの伊豆の温泉場へ稼ぎに行く、そういう男の一人である。毎年同じ宿に働くとは限らない。彼は伊豆の繁華な温泉場の経験を振り廻して、ここらの客扱いの陰口ばかりきいていた。揉手しながらしつっこく客を引くが、いかにも誠意のない物乞いじみた人相が現われていた。

「旦那、あけびの実を御存じですか。召し上るなら取って参りますよ」と、散歩帰りの島村に言って、彼はその実を蔓のまま紅葉の枝に結びつけた。

紅葉は山から伐って来たらしく軒端につかえる高さ、玄関がぱっと明るむように色あざやかなくれないで、一つ一つの葉も驚くばかり大きかった。

島村はあけびの冷たい実を握ってみながら、ふと帳場の方を見ると、葉子が炉端に坐っていた。

おかみさんが銅壺で燗の番をしている。葉子はそれと向い合って、なにか言われるたびにはっきりうなずいていた。山袴も羽織もなしに、洗い張りしたばかりのような銘仙を着ていた。

「手伝いの人?」と、島村がなにげなく番頭に訊くと、

「はあ、お蔭さまで、人手が足りないもんでございますから」

「君と同じだね」

「へえ。しかし、村の娘で、なかなか一風変っておりますな」

葉子は勝手働きをしているとみえ、今まで客座敷へは出ないようだった。客がたてこむと、炊事場の女中達の声も大きくなるのだが、葉子のあの美しい声は聞えなかった。島村の部屋を受け持つ女中の話では、葉子は寝る前に湯槽のなかで歌を歌う癖があるということだったが、彼はそれも聞かなかった。

しかし葉子がこの家にいるのだと思うと、島村は駒子を呼ぶことにもなぜかこだわりを感じた。駒子の愛情は彼に向けられたものであるにもかかわらず、それを美しい徒労であるかのように思う彼自身の虚しさがあって、けれどもかえってそれにつれて、駒子の生きようとしている命が裸の肌のように触れて来もするのだった。彼は駒子を哀れみながら、自らを哀れんだ。そのようなありさまを無心に刺し透す光に似た目が、葉子にありそうな気がして、島村はこの女にも惹かれるのだった。

島村が呼ばなくとも駒子はむろんしげしげと来た。

渓流の奥の紅葉を見に行くので、彼は駒子の家の前を通ったことがあったが、その時彼女は車の音を聞きつけて、今のは島村にちがいないと表へ飛び出てみたのに、彼はうしろを振り返りもしなかったのは薄情者だと言ったほどだから、彼女は宿へ呼ばれさえすれば、島村の部屋へ寄らぬことはなかった。湯に行くにも道寄りした。宴会があると一時間も早く来て、女中が呼ぶまで彼のところで遊んでいた。座敷をよく抜け出して来ては、鏡台で顔を直して、

「これから働きに行くの、商売気があるから。さあ、商売、商売」と、立って行った。

撥入れだとか、羽織だとか、なにかしら持って来たものを、彼の部屋へ置いて帰りたがった。

「昨夜帰ったら、お湯が沸いてないの。お勝手をごそごそやって、朝の味噌汁の残りを掛けて、梅干で食べたのよ。冷たあい。今朝うちで起してくれないのよ。目が覚めてみたら十時半、七時に起きて来ようと思ってたのに、駄目になったわ」

そんなことや、どの宿からどの宿へ行ったという、座敷の模様をあれこれと報告するのだった。

「また来るわね」と、水を飲んで立ち上りながら、

「もう来んかもしれないわ。だって三十人のところへ三人だもの、忙しくて抜けられないの」

しかし、また間もなく来て、

「つらいわ。三十人の相手に三人しかいないの。それが一番年寄と一番若い子だから、私がつらいわ。けちな客、きっとなんとか旅行会だわ。三十人なら少くとも六人はいなければね。飲んでおどかして来るわね」

毎日がこんな風では、どうなってゆくことかと、さすがに駒子は身も心も隠したいようであったが、そのどこか孤独の趣きは、かえって風情をなまめかすばかりだった。

「廊下が鳴るので恥かしいわ。そっと歩いても分るのね。お勝手の横を通ると、駒ちゃん椿の間かって、笑うんですよ。こんな気兼ねをするようになろうとは思わなかった」

「土地が狭いから困るだろう」

「もうみんな知ってるわよ」

「そりゃいかんね」

「そうね。ちょっと悪い評判が立てば、狭い土地はおしまいね」と言ったが、すぐ顔を上げて微笑むと、

「ううん、いいのよ。私達はどこへ行ったって働けるから」

その素直な実感の籠った調子は、親譲りの財産で徒食する島村にはひどく意外だった。

「ほんとうよ。どこで稼ぐのもおんなじよ。くよくよすることない」

なにげない口ぶりなのだが、島村は女の響きを聞いた。

「それでいいのよ。ほんとうに人を好きになれるのは、もう女だけなんですから」と、駒子は少し顔を赤らめてうつ向いた。

襟を透かしているので、背から肩へ白い扇を拡げたようだ。その白粉の濃い肉はなんだか悲しく盛り上って、毛織物じみて見え、また動物じみて見えた。

「今の世のなかではね」と、島村は呟いて、その言葉の空々しいのに冷っとした。

しかし駒子は単純に、

「いつだってそうよ」

そして顔を上げると、ぼんやり言い足した。

「あんたそれを知らないの?」

背に吸いついている赤い肌襦袢が隠れた。

ヴァレリイやアラン、それからまたロシア舞踊の花やかだった頃のフランス文人達の舞踊論を、島村は翻訳しているのだった。小部数の贅沢本として自費出版するつもりである。今の日本の舞踊界になんの役にも立ちそうでない本であることが、かえって彼を安心させると言えば言える。自分の仕事によって自分を冷笑することは、甘ったれた楽しみなのだろう。そんなところから彼の哀れな夢幻の世界が生れるのかもしれぬ。旅にまで出て急ぐ必要はさらにない。

彼は昆虫どもの悶死するありさまを、つぶさに観察していた。

秋が冷えるにつれて、彼の部屋の畳の上で死んでゆく虫も日ごとにあったのだ。翼の堅い虫はひっくりかえると、もう起き直れなかった。蜂は少し歩いて転び、また歩いて倒れた。季節の移るように自然と亡びてゆく、静かな死であったけれども、近づいて見ると脚や触覚を顫わせて悶えているのだった。それらの小さい死の場所として、八畳の畳はたいへん広いもののように眺められた。

島村は死骸を捨てようとして指で拾いながら、家に残して来た子供達をふと思い出すこともあった。

窓の金網にいつまでもとまっていると思うと、それは死んでいて、枯葉のように散ってゆく蛾もあった。壁から落ちて来るのもあった。手に取ってみては、なぜこんなに美しく出来ているのだろうと、島村は思った。

その虫除けの金網も取りはずされた。虫の声がめっきり寂れた。

国境の山々は赤錆色が深まって、夕日を受けると少し冷たい鉱石のように鈍く光り、宿は紅葉の客の盛りであった。

「今日は来れないわよ、たぶん。地の人の宴会だから」と、その夜も駒子は島村の部屋へ寄って行くと、やがて大広間に太鼓が入って女の金切声も聞えて来たが、その騒々しさの最中に思いがけない近くから、澄み通った声で、

「御免下さい、御免下さい」と、葉子が呼んでいた。

「あの、駒ちゃんがこれよこしました」

葉子は立ったまま郵便配達のような恰好に手を突き出したが、あわてて膝を突いた。島村がその結び文を拡げていると、葉子はもういなくなった。なにを言う間もなかった。

「今とっても朗らかに騒いでます酒のんで」と、懐紙に酔った字で書いてあるだけだった。

しかし十分と経たぬうちに、駒子が乱れた足音で入って来て、

「今あの子がなにか持って来た?」

「来たよ」

「そう?」と、上機嫌に片目を細めながら、

「ふう、いい気持。お酒を註文しに行く、そう言って、そうっと抜けて来た。番頭さんに見つかって叱られた。お酒はいい、叱られても、足音が気にならん。ああ、いやだわ。ここへ来ると、急に酔いが出る。これから働きに行くの」

「指の先までいい色だよ」

「さあ、商売。あの子なんて言った? 恐ろしいやきもち焼きなの、知ってる?」

「誰が?」

「殺されちゃいますよ」

「あの娘さんも手伝ってるんだね」

「お銚子を運んで来て、廊下の蔭に立って、じいっと見てんのよ、きらきら目を光らして。あんたああいう目が好きなんでしょう」

「あさましいありさまだと思って見てたんだよ」

「だから、これ持ってらっしゃいって、書いてよこしたんだわ。水飲みたい、水ちょうだい。どっちがあさましいか、女は口説き落してみないことには、分らないわよ。私酔ってる?」と、倒れるように鏡台の両端をつかまえて覗きこむと、しゃんと裾を捌いて出て行った。

やがて宴会も終ったらしく、急にひっそりして、瀬戸物の音が遠く聞えたりするので、駒子も客に連れられて別の宿の二次会へ廻ったのかと思っていると、葉子がまた駒子の結び文を持って来た。

「山風館やめにしましたこれから梅の間帰りによりますおやすみ」

島村は少し恥かしそうに苦笑して、

「どうもありがとう。手伝いに来てるの?」

「ええ」と、うなずくはずみに、葉子はあの刺すように美しい目で、島村をちらっと見た。島村はなにか狼狽した。

これまで幾度も見かけるたびごとに、いつも感動的な印象を残している、この娘がなにごともなくこうして彼の前に坐っているのは、妙に不安であった。彼女の真剣過ぎる素振りは、いつも異常な事件の真中にいるという風に見えるのだった。

「いそがしそうだね」

「ええ。でも、私はなんにも出来ません」

「君にはずいぶんたびたび会ったな。初めはあの人を介抱して帰る汽車のなかで、駅長に弟さんのことを頼んでたの、覚えてる?」

「ええ」

「寝る前にお湯のなかで歌を歌うんだって?」

「あら、お行儀の悪い、いやだわ」と、その声が驚くほど美しかった。

「君のことはなにもかも知ってるような気がするね」

「そうですか。駒ちゃんにお聞きになったんですか」

「あの人はしゃべりゃしない。君の話をするのをいやがるくらいだよ」

「そうですか」と、葉子はそっと横を向いて、

「駒ちゃんはいいんですけれども、可哀想なんですから、よくしてあげて下さい」

早口に言う、その声が終りの方は微かに顫えた。

「しかし僕には、なんにもしてやれないんだよ」

葉子は今に体まで顫えて来そうに見えた。危険な輝きが迫って来るような顔から島村は目をそらせて笑いながら、

「早く東京へ帰った方がいいかもしれないんだけれどもね」

「私も東京へ行きますわ」

「いつ?」

「いつでもいいんですの」

「それじゃ、帰る時連れて行ってあげようか」

「ええ、連れて帰って下さい」と、こともなげに、しかし真剣な声で言うので、島村は驚いた。

「君のうちの人がよければね」

「うちの人って、鉄道へ出ている弟一人ですから、私がきめちゃっていいんです」

「東京になんかあてがあるの?」

「いいえ」

「あの人に相談した?」

「駒ちゃんですか。駒ちゃんは憎いから言わないんです」

そう言って、気のゆるみか、少し濡れた目で彼を見上げた葉子に、島村は奇怪な魅力を感じると、どうしてかかえって、駒子に対する愛情が荒々しく燃えて来るようであった。為体の知れない娘と駈落ちのように帰ってしまうことは、駒子への激しい謝罪の方法であるかとも思われた。またなにかしら刑罰のようでもあった。

「君はそんな、男の人と行ってこわくはないのかい」

「どうしてですか」

「君が東京でさしずめ落ちつく先きとか、なにをしたいとかいうことくらいきまってないと危いじゃないか」

「女一人くらいどうにでもなりますわ」と、葉子は言葉尻が美しく吊り上るように言って、島村を見つめたまま、

「女中に使っていただけませんの?」

「なあんだ、女中にか?」

「女中はいやなんです」

「この前東京にいた時は、なにをしてたんだ」

「看護婦です」

「病院か学校に入ってたの」

「いいえ、ただなりたいと思っただけですわ」

島村はまた汽車のなかで師匠の息子を介抱していた葉子の姿を思い出して、あの真剣さのうちには葉子の志望も現われていたのかと微笑まれた。

「それじゃ今度も看護婦の勉強がしたいんだね」

「看護婦にはもうなりません」

「そんな根なしじゃいけないね」

「あら、根なんて、いやだわ」と、葉子は弾き返すように笑った。

その笑い声も悲しいほど高く澄んでいるので、白痴じみては聞えなかった。しかし島村の心の殻を空しく叩いて消えてゆく。

「なにがおかしいんだ」

「だって、私は一人の人しか看病しないんです」

「え?」

「もう出来ませんの」

「そうか」と、島村はまた不意打ちを食わされて静かに言った。

「毎日君は蕎麦畑の下の墓にばかり参ってるそうだね」

「ええ」

「一生のうちに、外の病人を世話することも、外の人の墓に参ることも、もうないと思ってるのか?」

「ないわ」

「それに墓を離れて、よく東京へ行けるね?」

「あら、すみません。連れて行って下さい」

「君は恐ろしいやきもち焼きだって、駒子が言ってたよ。あの人は駒子のいいなずけじゃなかったの?」

「行男さんの? 嘘、嘘ですよ」

「駒子が憎いって、どういうわけだ」

「駒ちゃん?」と、そこにいる人を呼ぶかのように言って、葉子は島村をきらきら睨んだ。

「駒ちゃんをよくしてあげて下さい」

「僕はなんにもしてやれないんだよ」

葉子の目頭に涙が溢れて来ると、畳に落ちていた小さい蛾を掴んで泣きじゃくりながら、

「駒ちゃんは私が気ちがいになると言うんです」と、ふっと部屋を出て行ってしまった。

島村は寒気がした。

葉子の殺した蛾を捨てようとして窓をあけると、酔った駒子が客を追いつめるような中腰になって拳を打っているのが見えた。空は曇っていた。島村は内湯に行った。

隣りの女湯へ葉子が宿の子をつれて入って来た。

着物を脱がせたり、洗ってやったりするのが、いかにも親切なものいいで、初々しい母の甘い声を聞くように好もしかった。

そしてあの声で歌い出した。

…………

…………

裏へ出て見たれば

梨の樹が三本

杉の樹が三本

みんなで六本

下から烏が

巣をかける

上から雀が

巣をかける

森の中の螽檜

どういうて囀るや

お杉友達墓参り

墓参り一丁一丁一丁や

手鞠歌の幼い早口で生き生きとはずんだ調子は、ついさっきの葉子など夢かと島村に思わせた。

葉子が絶え間なく子供にしゃべり立てて上ってからも、その声が笛の音のようにまだそこらに残っていそうで、黒光りに古びた玄関の板敷きに片寄せてある、桐の三味線箱の秋の夜更らしい静まりにも、島村はなんとなく心惹かれて、持主の芸者の名を読んでいると、食器を洗う音の方から駒子が来た。

「なに見てんの?」

「この人泊りかい?」

「誰。ああ、これ? 馬鹿ねえ、あんた、そんなものいちいち持って歩けやしないじゃないの。幾日も置きっ放しにしとくことがあるのよ」と笑ったはずみに、苦しい息を吐きながら目をつぶると、褄を放して島村によろけかかった。

「ねえ、送ってちょうだい」

「帰ることないじゃないか」

「だめ、だめ、帰る。地の人の宴会で、みんな二次会へついて行ったのに、私だけ残ったのよ。ここにお座敷があったからいいようなものの、お友達が帰りにお湯へでも誘ってくれて、私が家にいなかったら、あんまりだわ」

したたか酔ってるのに、駒子は険しい坂をしゃんしゃん歩いた。

「あの子をあんた泣かしたのね」

「そう言えば、確かに少し気ちがいじみてるね」

「人のことをそんな風に見て、面白いの?」

「君が言ったんじゃないか、気ちがいになりそうだって、君に言われたのを思い出すと、くやしくて泣き出したらしかったよ」

「それならいいわ」

「ものの十分もたたぬうちに、お湯に入っていい声で歌ってるんだ」

「お湯のなかで歌を歌うのは、あの子の癖なのよ」

「君のことをよくしてあげて下さいって、真剣に頼むんだ」

「馬鹿ねえ。だけど、そんなこと、あなた私に吹聴なさらなくってもいいじゃないの」

「吹聴? 君はあの娘のことになると、どうしてだか知らないが妙に意地を張るんだね」

「あんたあの子が欲しいの?」

「それ、そういうことを言う」

「じょうだんじゃないのよ。あの子を見てると、行末私のつらい荷物になりそうな気がするの。なんとなくそうなの。あんただって仮りにあの子が好きだとして、あの子のことよく見てごらんなさい。きっとそうお思いになってよ」と、駒子は島村の肩に手をかけてしなだれて来たが、突然首を振ると、

「ちがう。あんたみたいな人の手にかかったら、あの子は気ちがいにならずにすむかもしれないわ。私の荷を持って行っちゃってくれない?」

「いい加減にしろよ」

「酔って管を巻いてると思ってらっしゃるわ? あの子があんたの傍で可愛がられてると思って、私はこの山のなかで身を持ち崩すの。しいんといい気持」

「おい」

「ほっといてちょうだい」と、小走りに逃げて雨戸にどんとぶっつかると、そこは駒子の家だった。

「もう帰らないと思ってるんだ」

「ううん、あくのよ」

枯れ切った音のする戸の裾を抱き上げるように引いて、駒子は囁いた。

「寄って行って」

「だって今頃」

「もう家の人は寝ちゃってますわ」

島村はさすがにしりごみした。

「それじゃ私が送って行きます」

「いいよもう」

「いけない。今度の私の部屋まだ見ないじゃないの」

勝手口へ入ると、目の前に家の人達の寝姿が乱れていた。ここらあたりの山袴のような木綿の、それも色褪せた固い蒲団を並べて、主人夫婦と十七、八の娘を頭に五、六人の子供が薄茶けた明りの下に、思い思いの方に顔を向けて眠っているのは、侘しいうちにも逞しい力が籠っていた。

島村は寝息の温みに押し返されるように、思わず表へ出ようとしたけれども、駒子がうしろの戸をがたぴししめて、足音の遠慮もなく板の間を踏んで行くので、島村も子供の枕もとを忍ぶように通り抜けると、怪しい快感で胸が顫えた。

「ここで待ってて。二階の明りをつけますから」

「いいよ」と、島村は真暗な梯子段を昇って上った。振り返ると素朴な寝顔の向うに駄菓子の店が見えた。

百姓家らしい古畳の二階に四間で、

「私一人だから広いことは広いのよ」と、駒子は言ったが、襖はみな明け放して、家の古道具などをあちらの部屋に積み重ね、煤けた障子のなかに駒子の寝床を一つ小さく敷き、壁に座敷着のかかっているのなどは、狐狸の棲家のようであった。

駒子は床の上にちょこんと坐ると、一枚しかない座蒲団を島村にすすめて、

「まあ、真赤」と、鏡を覗いた。

「こんなに酔ってたのかしら?」

そして箪笥の上の方を捜しながら、

「これ、日記」

「ずいぶんあるんだね」

その横から千代紙張りの小箱を出すと、いろんな煙草がいっぱいつまっていた。

「お客さんのくれるのを袂へ入れたり帯に挟んだりして帰るから、こんなに皺になってるけれど、汚くはないの。そのかわりたいていのものは揃ってるわ」と、島村の前に手を突いて箱のなかを掻き廻して見せた。

「あら、マッチがないわ。自分が煙草を止めたから、いらないのよ」


    Ваша оценка произведения:

Популярные книги за неделю