Текст книги "Снежная страна (雪国)"
Автор книги: Yasunari Kawabata
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Классическая проза
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川端康成
雪国
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。 夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、
「駅長さあん、駅長さあん」
明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。
もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。
「駅長さん、私です、御機嫌よろしゅうございます」
「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ」
「弟が今度こちらに勤めさせていただいておりますのですってね。お世話さまですわ」
「こんなところ、今に寂しくて参るだろうよ。若いのに可哀想だな」
「ほんの子供ですから、駅長さんからよく教えてやっていただいて、よろしくお願いいたしますわ」
「よろしい。元気で働いてるよ。これからいそがしくなる。 去年は大雪だったよ。よく雪崩れてね、汽車が立往生するんで、村も焚出しがいそがしかったよ」
「駅長さんずいぶん厚着に見えますわ。弟の手紙には、まだチョッキも着ていないようなことを書いてありましたけれど」
「私は着物を四枚重ねだ。若い者は寒いと酒ばかり飲んでいるよ。それでごろごろあすこにぶっ倒れてるのさ、風邪をひいてね」
駅長は宿舎の方へ手の明りを振り向けた。
「弟もお酒をいただきますでしょうか」
「いや」
「駅長さんもうお帰りですの?」
「私は怪我をして、医者に通ってるんだ」
「まあ。いけませんわ」
和服に外套の駅長は寒い立話をさっさと切り上げたいらしく、もう後姿を見せながら、
「それじゃまあ大事にいらっしゃい」
「駅長さん、弟は今出ておりませんの?」と、葉子は雪の上を目捜しして、
「駅長さん、弟をよく見てやって、お願いです」
悲しいほど美しい声であった。高い響きのまま夜の雪から木魂して来そうだった。
汽車が動き出しても、彼女は窓から胸を入れなかった。そうして線路の下を歩いている駅長に追いつくと、
「駅長さあん、今度の休みの日に家へお帰りって、弟に言ってやって下さあい」
「はあい」と、駅長が声を張りあげた。
葉子は窓をしめて、赤らんだ頬に両手をあてた。
ラッセルを三台備えて雪を待つ、国境の山であった。トンネルの南北から、電力による雪崩報知線が通じた。除雪人夫延人員五千名に加えて消防組青年団の延人員二千名出動の手配がもう整っていた。
そのような、やがて雪に埋れる鉄道信号所に、 葉子という娘の弟がこの冬から勤めているのだと分ると、島村はいっそう彼女に興味を強めた。
しかしここで「娘」と言うのは、島村にそう見えたからであって、連れの男が彼女のなんであるか、むろん島村の知るはずはなかった。二人のしぐさは夫婦じみていたけれども、男は明らかに病人だった。病人相手ではつい男女の隔てがゆるみ、まめまめしく世話すればするほど、夫婦じみて見えるものだ。実際また自分より年上の男をいたわる女の幼い母ぶりは、遠目に夫婦とも思われよう。
島村は彼女一人だけを切り離して、その姿の感じから、自分勝手に娘だろうときめているだけのことだった。でもそれには、彼がその娘を不思議な見方であまりに見つめ過ぎた結果、彼自らの感傷が多分に加わってのことかもしれない。
もう三時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片眼がはっきり浮き出たのだった。彼は驚いて声をあげそうになった。しかしそれは彼が心を遠くへやっていたからのことで、気がついてみればなんでもない、向側の座席の女が写ったのだった。外は夕闇がおりているし、汽車のなかは明りがついている。それで窓ガラスが鏡になる。けれども、スチイムの温みでガラスがすっかり水蒸気に濡れているから、指で拭くまでその鏡はなかったのだった。
娘の片眼だけはかえって異様に美しかったものの、島村は顔を窓に寄せると、夕景色見たさという風な旅愁顔を俄づくりして、掌でガラスをこすった。
娘は胸をこころもち傾けて、前に横たわった男を一心に見下していた。肩に力が入っているところから、少しいかつい眼も瞬きさえしないほどの真剣さのしるしだと知れた。男は窓の方を枕にして、娘の横へ折り曲げた足をあげていた。三等車である。島村の真横ではなく、一つ前の向側の座席だったから、横寝している男の顔は耳のあたりまでしか鏡に写らなかった。
娘は島村とちょうど斜めに向い合っていることになるので、じかにだって見られるのだが、彼女等が汽車に乗り込んだ時、なにか涼しく刺すような娘の美しさに驚いて目を伏せるとたん、娘の手を固くつかんだ男の青黄色い手が見えたものだから、島村は二度とそっちを向いては悪いような気がしていたのだった。
鏡の中の男の顔色は、ただもう娘の胸のあたりを見ているゆえに安らかだという風に落ちついていた。弱い体力が弱いながらに甘い調和を漂わせていた。襟巻を枕に敷き、それを鼻の下にひっかけて口をぴったり覆い、それからまた上になった頬を包んで、一種の頬かむりのような工合だが、ゆるんで来たり、鼻にかぶさって来たりする。男が目を動かすか動かさぬうちに、娘はやさしい手つきで直してやっていた。見ている島村がいら立って来るほど幾度もその同じことを、二人は無心に繰り返していた。また、男の足をつつんだ外套の裾が時々開いて垂れ下る。それも娘はすぐ気がついて直してやっていた。これらがまことに自然であった。このようにして距離というものを忘れながら、二人は果しなく遠くへ行くものの姿のように思われたほどだった。それゆえ島村は悲しみを見ているというつらさはなくて、夢のからくりを眺めているような思いだった。不思議な鏡のなかのことだったからでもあろう。
鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。登場人物と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つが融け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。殊に娘の顔のただなかに野山のともし火がともった時には、島村はなんともいえぬ美しさに胸が顫えたほどだった。
遥かの山の空はまだ夕焼の名残の色がほのかだったから、窓ガラス越しに見る風景は遠くの方までものの形が消えてはいなかった。しかし色はもう失われてしまっていて、どこまで行っても平凡な野山の姿がなおさら平凡に見え、なにものも際立って注意を惹きようがないゆえに、かえってなにかぼうっと大きい感情の流れであった。むろんそれは娘の顔をそのなかに浮べていたからである。姿が写る部分だけは窓の外が見えないけれども、娘の輪郭のまわりを絶えず夕景色が動いているので、娘の顔も透明のように感じられた。しかしほんとうに透明かどうかは、顔の裏を流れてやまぬ夕景色が顔の表を通るかのように錯覚されて、見極める時がつかめないのだった。
汽車のなかもさほど明るくはなし、ほんとうの鏡のように強くはなかった。反射がなかった。だから、島村は見入っているうちに、鏡のあることをだんだん忘れてしまって、夕景色の流れのなかに娘が浮んでいるように思われて来た。
そういう時彼女の顔のなかにともし火がともったのだった。この鏡の映像は窓の外のともし火を消す強さはなかった。ともし火も映像を消しはしなかった。そうしてともし火は彼女の顔のなかを流れて通るのだった。しかし彼女の顔を光り輝かせるようなことはしなかった。冷たく遠い光であった。小さい瞳のまわりをぽうっと明るくしながら、つまり娘の眼と火とが重なった瞬間、彼女の眼は夕闇の波間に浮ぶ、妖しく美しい夜光虫であった。
こんな風に見られていることを、葉子は気づくはずがなかった。彼女はただ病人に心を奪われていたが、たとえ島村の方へ振り向いたところで、窓ガラスに写る自分の姿は見えず、窓の外を眺める男など目に止まらなかっただろう。
島村が葉子を長い間盗見しながら彼女に悪いということを忘れていたのは、夕景色の鏡の非現実な力にとらえられていたからだったろう。
だから彼女が駅長に呼びかけて、ここでもなにか真剣過ぎるものを見せた時にも、物語めいた興味が先きに立ったのかもしれない。
その信号所を通るころは、もう窓はただ闇であった。向うに風景の流れが消えると鏡の魅力も失われてしまった。葉子の美しい顔はやはり写っていたけれども、その温かいしぐさにかかわらず、島村は彼女のうちになにか澄んだ冷たさを新しく見つけて、鏡の曇って来るのを拭おうともしなかった。
ところがそれから半時間ばかり後に、思いがけなく葉子達も島村と同じ駅に下りたので、彼はまたなにか起るかと自分にかかわりがあるかのように振り返ったが、プラット・フォウムの寒さに触れると、急に汽車のなかの非礼が恥ずしくなって、後も見ずに機関車の前を渡った。
男が葉子の肩につかまって線路へ下りようとした時に、こちらから駅員が手を上げて止めた。
やがて闇から現われて来た長い貨物列車が二人の姿を隠した。
宿屋の客引きの番頭はちょうど火事場の消防のようにものものしい雪装束だった。耳をつつみ、ゴムの長靴をはいていた。待合室の窓から線路の方を眺めて立っている女も、青いマントを着て、その頭巾をかぶっていた。
島村は汽車のなかのぬくみがさめなくて、そとのほんとうの寒さをまだ感じなかったけれども、雪国の冬は初めてだから、土地の人のいでたちにまずおびやかされた。
「そんな恰好をするほど寒いのかね」
「へい、もうすっかり冬支度です。雪の後でお天気になる前の晩は、特別冷えます。今夜はこれでもう氷点を下っておりますでしょうね」
「これが氷点以下かね」と、島村は軒端の可愛い氷柱を眺めながら、宿の番頭と自動車に乗った。雪の色が家々の低い屋根をいっそう低く見せて、村はしいんと底に沈んでいるようだった。
「なるほどなににさわっても冷たさがちがうよ」
「去年は氷点下二十何度というのが一番でした」
「雪は?」
「さあ、普通七、八尺ですけれど、多い時は一丈を二、三尺超えてますでしょうね」
「これからだね」
「これからですよ。この雪はこの間一尺ばかり降ったのが、だいぶ解けて来たところです」
「解けることもあるのかね」
「もういつ大雪になるか分りません」
十二月の初めであった。
島村はしつっこい風邪心地でつまっていた鼻が、頭のしんまですっといちどきに通って、よごれものが洗い落されるように、水洟がしきりと落ちて来た。
「お師匠さんとこの娘はまだいるかい」
「へえ、おりますおります。駅におりましたが、御覧になりませんでしたか、濃い青のマントを着て」
「あれがそうだったの?――後で呼べるだろう」
「今夜ですか」
「今夜だ」
「今の終列車でお師匠さんの息子が帰るとか言って、迎えに出ていましたよ」
夕景色の鏡のなかで葉子にいたわられていた病人は、島村が会いに来た女の家の息子だったのだ。
そうと知ると、自分の胸のなかをなにかが通り過ぎたように感じたけれども、このめぐりあわせを、彼はさほど不思議と思うことはなかった。不思議と思わぬ自分を不思議と思ったくらいのものであった。
指で覚えている女と眼にともし火をつけていた女との間に、なにがあるのかなにが起るのか、島村はなぜかそれが心のどこかで見えるような気持もする。まだ夕景色の鏡から醒め切らぬせいだろうか。あの夕景色の流れは、さては時の流れの象徴であったかと、彼はふとそんなことを呟いた。
スキイの季節前の温泉宿は最も客の少い時で、島村が内湯から上って来ると、もう全く寝静まっていた。古びた廊下は彼の踏むたびにガラス戸を微かに鳴らした。その長いはずれの帳場の曲り角に、裾を冷え冷えと黒光りの板の上へ拡げて、女が高く立っていた。
とうとう芸者に出たのであろうかと、その裾を見てはっとしたけれども、こちらへ歩いて来るでもない、体のどこかを崩して迎えるしなを作るでもない、じっと動かぬその立ち姿から、彼は遠目にも真面目なものを受け取って、急いで行ったが、女の傍に立っても黙っていた。女も濃い白粉の顔で微笑もうとすると、かえって泣き面になったので、なにも言わずに二人は部屋の方へ歩き出した。
あんなことがあったのに、手紙も出さず、会いにも来ず、踊の型の本など送るという約束も果さず、女からすれば笑って忘れられたとしか思えないだろうから、まず島村の方から詫びかいいわけを言わねばならない順序だったが、顔を見ないで歩いているうちにも、彼女は彼を責めるどころか、体いっぱいになつかしさを感じていることが知れるので、彼はなおさら、どんなことを言ったにしても、その言葉は自分の方が不真面目だという響きしか持たぬだろうと思って、なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれていたが、階段の下まで来ると、
「こいつが一番よく君を覚えていたよ」と、人差指だけ伸した左手の握り拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。
「そう?」と、女は彼の指を握るとそのまま離さないで手をひくように階段を上って行った。
火燵の前で手を離すと、彼女はさっと首まで赤くなって、それをごまかすためにあわててまた彼の手を拾いながら、
「これが覚えていてくれたの?」
「右じゃない、こっちだよ」と、女の掌の間から右手を抜いて火燵に入れると、改めて左の握り拳を出した。彼女はすました顔で、
「ええ、分ってるわ」
ふふと含み笑いしながら、島村の掌を拡げて、その上に顔を押しあてた。
「これが覚えていてくれたの?」
「ほう冷たい。こんな冷たい髪の毛初めてだ」
「東京はまだ雪が降らないの?」
「君はあの時、ああ言ってたけれども、あれはやっぱり嘘だよ。そうでなければ、誰が年の暮にこんな寒いところへ来るものか」
あの時は――雪崩の危険期が過ぎて、新緑の登山季節に入った頃だった。
あけびの新芽も間もなく食膳に見られなくなる。
無為徒食の島村は自然と自身に対する真面目さも失いがちなので、それを呼び戻すには山がいいと、よく一人で山歩きをするが、その夜も国境の山々から七日ぶりで温泉場へ下りて来ると、芸者を呼んでくれと言った。ところがその日は道路普請の落成祝いで、村の繭倉兼芝居小屋を宴会場に使ったほどの賑かさだから、十二、三人の芸者では手が足りなくて、とうてい貰えないだろうが、師匠の家の娘なら宴会を手伝いに行ったにしろ、踊を二つ三つ見せただけで帰るから、もしかしたら来てくれるかも知れないとのことだった。島村が聞き返すと、三味線と踊の師匠の家にいる娘は芸者というわけではないが、大きい宴会などには時たま頼まれて行くこともある、半玉がなく、立って踊りたがらない年増が多いから、娘は重宝がられている、宿屋の客の座敷へなどめったに一人で出ないけれども、全くの素人とも言えない、ざっとこんな風な女中の説明だった。
怪しい話だとたかをくくっていたが、一時間ほどして女が女中に連れられて来ると、島村はおやと居住いを直した。すぐ立ち上って行こうとする女中の袖を女がとらえて、またそこに坐らせた。
女の印象は不思議なくらい清潔であった。足指の裏の窪みまできれいであろうと思われた。山々の初夏を見て来た自分の眼のせいかと、島村は疑ったほどだった。
着つけにどこか芸者風なところがあったが、むろん裾はひきずっていないし、やわらかい単衣をむしろきちんと着ている方であった。帯だけは不似合に高価なものらしく、それがかえってなにかいたましく見えた。
山の話などはじめたのをしおに、女中が立って行ったけれども、女はこの村から眺められる山々の名もろくに知らず、島村は酒を飲む気にもなれないでいると、女はやはり生れはこの雪国、東京でお酌をしているうちに受け出され、ゆくすえ日本踊の師匠として身を立てさせてもらうつもりでいたところ、一年半ばかりで旦那が死んだと、思いのほか素直に話した。しかしその人に死別れてから今日までのことが、おそらく彼女のほんとうの身の上話かもしれないが、それは急に打ち明けそうもなかった。十九だと言った。嘘でないなら、この十九が二十一、二に見えることに島村ははじめてくつろぎを見つけ出して、歌舞伎の話などしかけると、女は彼よりも俳優の芸風や消息に精通していた。そういう話相手に飢えていてか、夢中でしゃべっているうち、根が花柳界出の女らしいうちとけようを示して来た。男の気心を一通り知っているようでもあった。それにしても彼は頭から相手を素人ときめているし、一週間ばかり人間とろくに口をきいたこともない後だから、人なつかしさが温かく溢れて、女にまず友情のようなものを感じた。山の感傷が女の上にまで尾をひいて来た。
女は翌日の午後、お湯道具を廊下の外に置いて、彼の部屋へ遊びに寄った。
彼女が坐るか坐らないうちに、彼は突然芸者を世話してくれと言った。
「世話するって?」
「分ってるじゃないか」
「いやあねえ。私そんなこと頼まれるとは夢にも思って来ませんでしたわ」と、女はぷいと窓へ立って行って国境の山々を眺めたが、そのうちに頬を染めて、
「ここにはそんな人ありませんわよ」
「嘘をつけ」
「ほんとうよ」と、くるっと向き直って、窓に腰をおろすと、
「強制することは絶対にありませんわ。みんな芸者さんの自由なんですわ。宿屋でもそういうお話は一切しないの。ほんとうなのよ、これ。あなたが誰か呼んで直接話してごらんになるといいわ」
「君から頼んでみてくれよ」
「私がどうしてそんなことをしなければならないの?」
「友だちだと思ってるんだ。友だちにしときたいから、君は口説かないんだよ」
「それがお友達ってものなの?」と、女はつい誘われて子供っぽく言ったが、後はまた吐き出すように、
「えらいと思うわ。よくそんなことが私にお頼めになれますわ」
「なんでもないことじゃないか。山で丈夫になって来たんだよ。頭がさっぱりしないんだ。君とだって、からっとした気持で話が出来やしない」
女は瞼を落して黙った。島村はこうなればもう男の厚かましさをさらけ出しているだけなのに、それを物分りよくうなずく習わしが女の身にしみているのだろう。その伏目は濃い睫毛のせいか、ほうっと温かくなまめくと島村が眺めているうちに、女の顔はほんの少し左右に揺れて、また薄赤らんだ。
「お好きなのをお呼びなさい」
「それを君に聞いてるんじゃないか。初めての土地だから、誰がきれいだか分らんさ」
「きれいって言ったって」
「若いのがいいね。若い方がなにかにつけてまちがいが少いだろう。うるさくしゃべらんのがいい。ぼんやりしていて、よごれてないのが。しゃべりたい時は君としゃべるよ」
「私はもう来ませんわ」
「馬鹿言え」
「あら、来ないわよ。なにしに来るの?」
「君とさっぱりつきあいたいから、君を口説かないんじゃないか」
「あきれるわ」
「そういうことがもしあったら、明日はもう君の顔を見るのもいやになるかもしれん。話に気乗りするなんてことがなくなるよ。山から里へ出て来て、せっかく人なつっこいんだからね、君は口説かないんだ。だって、僕は旅行者じゃないか」
「ええ。ほんとうね」
「そうだよ。君にしたって、君が厭だと思う女となら、後で会うのも胸が悪いだろうが、自分が選んでやった女ならまだましだろう」
「知らないっ」と、強く投げつけてそっぽを向いたものの、
「それはそうだけれど」
「なにしたらおしまいさ。味気ないよ。長続きしないだろう」
「そう。ほんとうにみんなそうだわ。私の生れは港なの。ここは温泉場でしょう」と、女は思いがけなく素直な調子で、
「お客はたいてい旅の人なんですもの。私なんかまだ子供ですけれど、いろんな人の話を聞いてみても、なんとなく好きで、その時は好きだとも言わなかった人の方が、いつまでもなつかしいのね。忘れられないのね。別れた後ってそうらしいわ。向うでも思い出して、手紙をくれたりするのは、たいていそういうんですわ」
女は窓から立ち上ると、今度は窓の下の畳に柔かく坐った。遠い日々を振り返るように見えながら、急に島村の身近に坐ったという顔になった。
女の声にあまり実感が溢れているので、島村は苦もなく女を騙したかと、かえってうしろめたいほどだった。
しかし彼は嘘を言ったわけではなかった。女はとにかく素人である。彼の女ほしさは、この女にそれを求めるまでもなく、罪のない手軽さですむことだった。彼女は清潔過ぎた。一目見た時から、これと彼女とは別にしていた。
それに彼は夏の避暑地を選び迷っている時だったので、この温泉村へ家族づれで来ようかと思った。そうすれば女はさいわい素人だから、細君にもいい遊び相手になってもらえて、退屈まぎれに踊の一つも習えるだろう。本気にそう考えていた。女に友情のようなものを感じたといっても、彼はその程度の浅瀬を渡っていたのだった。
むろんここにも島村の夕景色の鏡はあったであろう。今の身の上が曖昧な女の後腐れを嫌うばかりでなく、夕暮の汽車の窓ガラスに写る女の顔のように非現実的な見方をしていたのかもしれない。
彼の西洋舞踊趣味にしてもそうだった。島村は東京の下町育ちなので、子供の時から歌舞伎芝居になじんでいたが、学生の頃は好みが踊や所作事に片寄って来て、そうなると一通りのことを究めぬと気のすまないたちゆえ、古い記録を漁ったり、家元を訪ね歩いたりして、やがては日本踊の新人とも知り合い、研究や批評めいた文章まで書くようになった。そうして日本踊の伝統の眠りにも新しい試みのひとりよがりにも、当然なまなましい不満を覚えて、もうこの上は自分が実際運動のなかへ身を投じて行くほかないという気持にかりたてられ、日本踊の若手からも誘いかけられた時に、彼はふいと西洋舞踊に鞍替えしてしまった。日本踊は全く見ぬようになった。その代りに西洋舞踊の書物と写真を集め、ポスタアやプログラムのたぐいまで苦労して外国から手に入れた。異国と未知とへの好奇心ばかりでは決してなかった。ここに新しく見つけた喜びは、目のあたり西洋人の踊を見ることが出来ないというところにあった。その証拠に島村は日本人の西洋舞踊は見向きもしないのだった。西洋の印刷物を頼りに西洋舞踊について書くほど安楽なことはなかった。見ない舞踊などこの世ならぬ話である。これほど机上の空論はなく、天国の詩である。研究とは名づけても勝手気儘な想像で、舞踊家の生きた肉体が踊る芸術を鑑賞するのではなく、西洋の言葉や写真から浮ぶ彼自身の空想が踊る幻影を鑑賞しているのだった。見ぬ恋にあこがれるようなものである。しかも、時々西洋舞踊の紹介など書くので文筆家の端くれに数えられ、それを自ら冷笑しながら職業のない彼の心休めとなることもあるのだった。
そういう彼の日本踊などの話が、女を彼に親しませる助けとなったのは、その知識が久しぶりで現実に役立ったともいうべきありさまだったけれども、やはり島村は知らず識らずのうちに、女を西洋舞踊扱いにしていたのかもしれない。
だから自分の淡い旅愁じみた言葉が、女の生活の急所に触れたらしいのを見ると、女を騙したかとうしろめたいぐらいだったが、
「そうしておけば、今度僕が家族を連れて来たって、君と気持よく遊べるさ」
「ええ、そのことはもうよく分りましたわ」と、女は声を沈めて微笑むと、少し芸者風にはしゃいで、
「私もそんなのが大好き、あっさりしたのが長続きするわ」
「だから呼んでくれよ」
「今?」
「うん」
「驚きますわ。こんな真昼間になんにもおっしゃれないでしょう?」
「屑が残るといやだよ」
「あんたそんなこと言うの、この土地を荒稼ぎの温泉場と考えちがいしてらっしゃるのよ。村の様子を見ただけでも分らないかしら」と、女はいかにも心外らしく真剣な口ぶりで、ここにはそういう女のいないことを繰り返して力説した。島村が疑うと、女はむきになって、しかし一歩譲って、それはどうしようと芸者の勝手だけれども、ただ、うちへことわらずに泊れば芸者の責任で、どうなろうとかまってはくれないが、うちへことわっとけば抱主の責任で、どこまでも後を見てくれる、それだけのちがいだと言う。
「責任てなんだ」
「子供が出来たり、体が悪くなったりすることですわ」
島村は自分の頓馬な質問に苦笑いしながら、そのようにのんきな話も、この村にはあるかも知れないと思った。
無為徒食の彼は自然と保護色を求める心があってか、旅先の土地の人気には本能的に敏感だが、山から下りて来るとすぐこの里のいかにもつましい眺めのうちに、のどかなものを受け取って、宿で聞いてみると、果してこの雪国でも最も暮しの楽な村の一つだとのことだった。つい近年鉄道の通じるまでは、主に農家の人々の湯治場だったという。芸者のいる家は料理屋とかしるこ屋とか色褪せた暖簾をかけているが、古風な障子のすすけたのを見ると、これで客があるのやら、そして日用雑貨の店や駄菓子屋にも、抱えをたった一人置いているのがあって、その主人達は店のほかに田畑で働くらしかった。師匠の家の娘だからではあろうが、鑑札のない娘がたまに宴会などの手伝いに出ても、咎め立てる芸者がないのだろう。
「それでどれくらいいるの」
「芸者さん? 十二、三人かしら」
「なんていう人がいいの?」と、島村が立ち上ってベルを押すと、
「私は帰りますわね?」
「君が帰っちゃ駄目だよ」
「厭なの」と、女は屈辱を振り払うように、
「帰りますわ。いいのよ、なんとも思やしませんわ。また来ますわ」
しかし女中を見ると、なにげなく坐り直した。女中が誰を呼ぼうかと幾度聞いても、女は名指しをしなかった。
ところが間もなく来た十七、八の芸者を一目見るなり、島村の山から里へ来た時の女ほしさは味気なく消えてしまった。肌の底黒い腕がまだ骨張っていて、どこか初々しく人がよさそうだから、つとめて興醒めた顔をすまいと芸者の方を向いていたが、実は彼女のうしろの窓の新緑の山々が目についてならなかった。ものを言うのも気だるくなった。いかにも山里の芸者だった。島村がむっつりしているので、女は気をきかせたつもりらしく黙って立ち上って行ってしまうと、いっそう座が白けて、それでももう一時間くらいは経っただろうから、なんとか芸者を帰す工夫はないかと考えるうちに、電報為替の来ていたことを思い出したので郵便局の時間にかこつけて、芸者といっしょに部屋を出た。
しかし、島村は宿の玄関で若葉の匂いの強い裏山を見上げると、それに誘われるように荒っぽく登って行った。
なにがおかしいのか、一人で笑いが止まらなかった。
ほどよく疲れたところで、くるっと振り向きざま浴衣の尻からげして、一散に駈け下りて来ると、足もとから黄蝶が二羽飛び立った。
蝶はもつれ合いながら、やがて国境の山より高く、黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった。
「どうなすったの」
女が杉林の陰に立っていた。
「うれしそうに笑ってらっしゃるわよ」
「止めたよ」と、島村はまたわけのない笑いがこみ上げて来て、
「止めた」
「そう?」
女はふいとあちらを向くと、杉林のなかへゆっくり入った。彼は黙ってついて行った。
神社であった。苔のついた狛犬の傍の平な岩に女は腰をおろした。
「ここが一等涼しいの。真夏でも冷たい風がありますわ」
「ここの芸者って、みなあんなのかね」
「似たようなものでしょう。年増にはきれいな人がありますわ」と、うつ向いて素気なく言った。その首に杉林の小暗い青が映るようだった。
島村は杉の梢を見上げた。
「もういいよ。体の力がいっぺんに抜けちゃって、おかしいようだよ」
その杉は岩にうしろ手を突いて胸まで反らないと目の届かぬ高さ、しかも実に一直線に幹が立ち並び、暗い葉が空をふさいでいるので、しいんと静けさが鳴っていた。島村が背を寄せている幹は、なかでも最も年古りたものだったが、どうしてか北側の枝だけが上まですっかり枯れて、その落ち残った根元は尖った杭を逆立ちに幹へ植え重ねたと見え、なにか恐しい神の武器のようであった。
「僕は思いちがいしてたんだな。山から下りて来て君を初めて見たもんだから、ここの芸者はきれいなんだろうと、うっかり考えてたらしい」と、笑いながら、七日間の山の健康を簡単に洗濯しようと思いついたのも、実は初めにこの清潔な女を見たからだったろうかと、島村は今になって気がついた。
西日に光る遠い川を女はじっと眺めていた。手持無沙汰になった。
「あら忘れてたわ。お煙草でしょう」と、女はつとめて気軽に、
「さっきお部屋へ戻ってみたら、もういらっしゃらないんでしょう。どうなすったかしらと思うと、えらい勢いでお一人山へ登ってらっしゃるんですもの。窓から見えたの。おかしかったわ。お煙草を忘れていらしたらしいから、持って来てあげたんですわ」
そして彼の煙草を袂から出すとマッチをつけた。
「あの子に気の毒したよ」
「そんなこと、お客さんの随意じゃないの、いつ帰そうと」
石の多い川の音が円い甘さで聞えて来るばかりだった。杉の間から向うの山襞の陰るのが見えた。
「君とそう見劣りしない女でないと、後で君と会った時心外じゃないか」
「知らないわ。負け惜みの強い方ね」と、女はむっと嘲けるように言ったけれども、芸者を呼ぶ前と全く別な感情が二人の間に通っていた。
はじめからただこの女がほしいだけだ、それを例によって遠廻りしていたのだと、島村ははっきり知ると、自分が厭になる一方女がよけい美しく見えて来た。杉林の陰で彼を呼んでからの女は、なにかすっと抜けたように涼しい姿だった。
細く高い鼻が少し寂しいけれども、その下に小さくつぼんだ唇はまことに美しい蛭の輪のように伸び縮みがなめらかで、黙っている時も動いているかのような感じだから、もし皺があったり色が悪かったりすると、不潔に見えるはずだが、そうではなく濡れ光っていた。目尻が上りも下りもせず、わざと真直ぐに描いたような眼はどこかおかしいようながら、短い毛の生えつまった下り気味の眉が、それをほどよくつつんでいた。少し中高の円顔はまあ平凡な輪郭だが、白い陶器に薄紅を刷いたような皮膚で、首のつけ根もまだ肉づいていないから、美人というよりもなによりも、清潔だった。
お酌に出たこともある女にしては、こころもち鳩胸だった。
「ほら、いつの間にかこんなに蚋が寄って来ましたわ」と、女は裾を払って立ち上った。
このまま静けさのなかにいては、もう二人の顔が所在なげに白けて来るばかりだった。
そしてその夜の十時頃だったろうか。女が廊下から大声に島村の名を呼んで、ばたりと投げ込まれたように彼の部屋へ入って来た。いきなり机に倒れかかると、その上のものを酔った手つきでつかみ散らして、ごくごく水を飲んだ。
この冬スキイ場でなじみになった男達が夕方山を越えて来たのに出会い、誘われるまま宿屋に寄ると、芸者を呼んで大騒ぎとなって、飲まされてしまったとのことだった。
頭をふらふらさせながら一人でとりとめなくしゃべり立ててから、
「悪いから行って来るわね。どうしたかと捜してるわ。後でまた来るわね」と、よろけ出て行った。
一時間ほどすると、また長い廊下にみだれた足音で、あちこちに突きあたったり倒れたりして来るらしく、
「島村さあん、島村さあん」と、甲高く叫んだ。
「ああ、見えない。島村さあん」
それはもうまぎれもなく女の裸の心が自分の男を呼ぶ声であった。島村は思いがけなかった。しかし宿屋中に響き渡るにちがいない金切声だったから、当惑して立ち上ると、女は障子紙に指をつっこんで桟をつかみ、そのまま島村の体へぐらりと倒れた。
「ああ、いたわね」
女は彼ともつれて坐って、もたれかかった。
「酔ってやしないよ。ううん、酔ってるもんか。苦しい。苦しいだけなのよ。性根は確かだよ。ああっ、水飲みたい。ウイスキイとちゃんぽんに飲んだのがいけなかったの。あいつ頭へ来る、痛い。あの人達安壜を買って来たのよ。それ知らないで」などと言って、掌でしきりに顔をこすっていた。
外の雨の音が俄に激しくなった。
少しでも腕をゆるめると、女はぐたりとした。女の髪が彼の頬で押しつぶれるほどに首をかかえているので手は懐に入っていた。
彼がもとめる言葉には答えないで、女は両腕を閂のように組んでもとめられたものの上をおさえたが、酔いしびれて力が入らないのか、
「なんだ、こんなもの。畜生。畜生。だるいよ。こんなもの」と、いきなり自分の肘にかぶりついた。
彼が驚いて離させると、深い歯形がついていた。
しかし、女はもう彼の掌にまかせて、そのまま落書をはじめた。好きな人の名を書いて見せると言って、芝居や映画の役者の名前を二、三十も並べてから、今度は島村とばかり無数に書き続けた。
島村の掌のありがたいふくらみはだんだん熱くなって来た。
「ああ、安心した。安心したよ」と、彼はなごやかに言って、母のようなものさえ感じた。
女はまた急に苦しみ出して、身をもがいて立ち上ると、部屋の向うの隅に突っ伏した。
「いけない、いけない。帰る、帰る」
「歩けるもんか。大雨だよ」
「跣足で帰る。這って帰る」
「危いよ。帰るなら送ってやるよ」
宿は丘の上で、嶮しい坂がある。
「帯をゆるめるか、少し横になって、醒ましたらいいだろう」
「そんなことだめ。こうすればいいの、慣れてる」と、女はしゃんと坐って胸を張ったが、息が苦しくなるばかりだった。窓をあけて吐こうとしても出なかった。身をもんで転りたいのを噛みこらえているありさまが続いて、時々意志を奮い起すように、帰る帰ると繰り返しながら、いつか午前二時を過ぎた。
「あんたは寝なさい。さあ、寝なさいったら」
「君はどうするんだ」
「こうやってる。少し醒まして帰る。夜のあけないうちに帰る」と、いざり寄って島村を引っぱった。
「私にかまわないで寝なさいってば」
島村が寝床に入ると、女は机に胸を崩して水を飲んだが、
「起きなさい。ねえ、起きなさいったら」
「どうしろって言うんだ」
「やっぱり寝てなさい」
「なにを言ってるんだ」と、島村は立ち上った。
女を引き摺って行った。
やがて、顔をあちらに反向けこちらに隠していた女が、突然激しく唇を突き出した。
しかしその後でも、むしろ苦痛を訴える譫言のように、
「いけない。いけないの。お友達でいようって、あなたがおっしゃったじゃないの」と、幾度繰り返したかしれなかった。
島村はその真剣な響きに打たれ、額に皺立て顔をしかめて懸命に自分を抑えている意志の強さには、味気なく白けるほどで、女との約束を守ろうかとも思った。
「私はなんにも惜しいものはないのよ。決して惜しいんじゃないのよ。だけど、そういう女じゃない。私はそういう女じゃないの。きっと長続きしないって、あんた自分で言ったじゃないの」
酔いで半ば痺れていた。
「私が悪いんじゃないわよ。あんたが悪いのよ。あんたが負けたのよ。あんたが弱いのよ。私じゃないのよ」などと口走りながら、よろこびにさからうためにそでをかんでいた。
しばらく気が抜けたみたいに静かだったが、ふと思い出して突き刺すように、
「あんた笑ってるわね。私を笑ってるわね」
「笑ってやしない」
「心の底で笑ってるでしょう。今笑ってなくっても、きっと後で笑うわ」と、女はうつぶせになってむせび泣いた。
でもすぐに泣き止むと、自分をあてがうように柔かくして、人なつっこくこまごまと身の上などを話し出した。酔いの苦しさは忘れたように抜けたらしかった。今のことにはひとことも触れなかった。
「あら、お話に夢中になってちっとも知らなかったわ」と、今度はぽうっと微笑んだ。
夜のあけないうちに帰らねばならないと言って、
「まだ暗いわね。この辺の人はそれは早起きなの」と、幾度も立ち上って窓をあけてみた。
「まだ人の顔は見えませんわね。今朝は雨だから、誰も田へ出ないから」
雨のなかに向うの山や麓の屋根の姿が浮び出してからも、女は立ち去りにくそうにしていたが、宿の人の起きる前に髪を直すと、島村が玄関まで送ろうとするのも人目を恐れて、あわただしく逃げるように、一人で抜け出して行った。そして島村はその日東京に帰ったのだった。
「君はあの時、ああ言ってたけれども、あれはやっぱり嘘だよ。そうでなければ、誰が年の暮にこんな寒いところへ来るものか。後でも笑やしなかったよ」
女がふっと顔を上げると、島村の掌に押しあてていた瞼から鼻の両側へかけて赤らんでいるのが、濃い白粉を透して見えた。それはこの雪国の夜の冷たさを思わせながら、髪の色の黒が強いために、温かいものに感じられた。
その顔は眩しげに含み笑いを浮べていたが、そうするうちにも「あの時」を思い出すのか、まるで島村の言葉が彼女の体をだんだん染めて行くかのようだった。女はむっとしてうなだれると、襟をすかしているから、背なかの赤くなっているのまで見え、なまなましく濡れた裸を剥き出したようであった。髪の色との配合のために、なおそう思われるのかもしれない。前髪が細かく生えつまっているというのではないけれども、毛筋が男みたいに太くて、後れ毛一つなく、なにか黒い鉱物の重ったいような光だった。
今さっき手に触れて、こんな冷たい髪の毛は初めてだとびっくりしたのは、寒気のせいではなく、こういう髪そのもののせいであったかと思えて、島村が眺め直していると、女は火燵板の上で指を折りはじめた。それがなかなか終らない。
「なにを勘定してるんだ」と聞いても、黙ってしばらく指折り数えていた。
「五月の二十三日ね」
「そうか。日数を数えてたのか。七月と八月と大が続くんだよ」
「ね、百九十九日目だわ。ちょうど百九十九日目だわ」
「だけど、五月二十三日って、よく覚えてるね」
「日記を見れば、すぐ分るわ」
「日記? 日記をつけてるの?」
「ええ、古い日記を見るのは楽しみですわ。なんでも隠さずその通りに書いてあるから、ひとりで読んでいても恥かしいわ」
「いつから」
「東京でお酌に出る少し前から。その頃はお金が自由にならないでしょう。自分で買えないの。二銭か三銭の雑記帳にね、定規をあてて、細かい罫を引いて、それが鉛筆を細く削ったと見えて、線がきれいに揃ってるんですの。そうして帳面の上の端から下の端まで、細かい字がぎっちり書いてあるの。自分で買えるようになったら、駄目。物を粗末に使うから。手習だって、元は古新聞に書いてたけれど、この頃は巻紙へじかでしょう」
「ずっと欠かさず日記をつけてるのかい」
「ええ、十六の時のと今年のとが、一番面白いわ。いつもお座敷から帰って、寝間着に着替えてつけたのね。遅く帰るでしょう。ここまで書いて、中途で眠ってしまったなんて、今読んでも分るところがあるの」
「そうかねえ」
「だけど、毎日毎日ってんじゃなく、休む日もあるのよ。こんな山の中だし、お座敷へ出たって、きまりきってるでしょう。今年はペエジごとに日附の入ったのしか買えなくて、失敗したわ。書き出せばどうしても長くなることがあるもの」
日記の話よりもなお島村が意外の感に打たれたのは、彼女は十五、六の頃から、読んだ小説をいちいち書き留めておき、そのための雑記帳がもう十冊にもなったということであった。
「感想を書いとくんだね?」
「感想なんか書けませんわ。題と作者と、それから出て来る人物の名前と、その人達の関係と、それくらいのものですわ」
「そんなものを書き止めといたって、しようがないじゃないか」
「しようがありませんわ」
「徒労だね」
「そうですわ」と、女はこともなげに明るく答えて、しかしじっと島村を見つめていた。
全く徒労であると、島村はなぜかもう一度声を強めようとしたとたんに、雪の鳴るような静けさが身にしみて、それは女に惹きつけられたのであった。彼女にとってはそれが徒労であろうはずがないとは彼も知りながら、頭から徒労だと叩きつけると、なにかかえって彼女の存在が純粋に感じられるのであった。
この女の小説の話は、日常使われる文学という言葉とは縁がないもののように聞えた。婦人雑誌を交換して読むくらいしか、この村の人との間にそういう友情はなく、後は全く孤立して読んでいるらしかった。選択もなく、さほどの理解もなく、宿屋の客間などでも小説本や雑誌を見つける限り、借りて読むという風であるらしかったが、彼女が思い出すままに挙げる新しい作家の名前など、島村の知らないのが少くなかった。しかし彼女の口ぶりは、まるで外国文学の遠い話をしているようで、無慾な乞食に似た哀れな響きがあった。自分が洋書の写真や文字を頼りに、西洋の舞踊を遥かに夢想しているのもこんなものであろうと、島村は思ってみた。
彼女もまた見もしない映画や芝居の話を、楽しげにしゃべるのだった。こういう話相手に幾月も飢えていた後なのであろう。百九十九日前のあの時も、こういう話に夢中になったことが、自ら進んで島村に身を投げかけてゆくはずみとなったのも忘れてか、またしても自分の言葉の描くもので体まで温まって来る風であった。
しかし、そういう都会的なものへのあこがれも、今はもう素直なあきらめにつつまれて無心な夢のようであったから、都の落人じみた高慢な不平よりも、単純な徒労の感が強かった。彼女自らはそれを寂しがる様子もないが、島村の眼には不思議な哀れとも見えた。その思いに溺れたなら、島村自らが生きていることも徒労であるという、遠い感傷に落されて行くのであろう。けれども目の前の彼女は山気に染まって生き生きした血色だった。
いずれにしろ、島村は彼女を見直したことにはなるので、相手が芸者というものになった今はかえって言い出しにくかった。
あの時彼女は泥酔していて、痺れて役に立たぬ腕を歯痒いがって、
「なんだこんなもの。畜生。畜生。だるいよ。こんなもの」と、肘に激しくかぶりついたほどであった。
足が立たないので、体をごろんごろん転がして、
「決して惜しいんじゃないのよ。だけどそういう女じゃない。私はそういう女じゃないの」と言った言葉も思い出されて来て、島村はためらっていると女はすばやく気づいて撥ね返すように、
「零時の上りだわ」と、ちょうどその時聞えた汽笛に立ち上って、思い切り乱暴に紙障子とガラス戸をあけ、手摺へ体を投げつけざま窓に腰かけた。
冷気が部屋へいちどきに流れ込んだ。汽車の響きは遠ざかるにつれて、夜風のように聞えた。
「おい、寒いじゃないか。馬鹿」と、島村も立ち上って行くと風はなかった。
一面の雪の凍りつく音が地の底深く鳴っているような、厳しい夜景であった。月はなかった。嘘のように多い星は、見上げていると、虚しい速さで落ちつつあると思われるほど、あざやかに浮き出ていた。星の群が目へ近づいて来るにつれて、空はいよいよ遠く夜の色を深めた。国境の山々はもう重なりも見分けられず、そのかわりそれだけの厚さがありそうないぶした黒で、星空の裾に重みを垂れていた。すべて冴え静まった調和であった。
島村が近づくのを知ると、女は手摺に胸を突っ伏せた。それは弱々しさではなく、こういう夜を背景にして、これより頑固なものはないという姿であった。島村はまたかと思った。
しかし、山々の色は黒いにかかわらず、どうしたはずみかそれがまざまざと白雪の色に見えた。そうすると山々が透明で寂しいものであるかのように感じられて来た。空と山とは調和などしていない。
島村は女の咽仏のあたりを掴んで、
「風邪を引く。こんなに冷たい」と、ぐいとうしろへ起そうとした。女は手摺にしがみつきながら声をつまらせて、
「私帰るわ」
「帰れ」
「もうしばらくこうさしといて」
「それじゃ僕はお湯に入って来るよ」
「いやよ。ここにいなさい」
「窓をしめてくれ」
「もうしばらくこうさしといて」
村は鎮守の杉林の陰に半ば隠れているが、自動車で十分足らずの停車場の燈火は、寒さのためぴいんぴいんと音を立てて毀れそうに瞬いていた。
女の頬も、窓のガラスも、自分のどてらの袖も、手に触るものは皆、島村にはこんな冷たさは初めてだと思われた。
足の下の畳までが冷えて来るので、一人で湯に行こうとすると、
「待って下さい。私も行きます」と、今度は女が素直について来た。
彼の脱ぎ散らすものを女が乱れ籠に揃えているところへ、男の泊り客が入って来たが、島村の胸の前へすくんで顔を隠した女に気がつくと、
「あっ、失礼しました」
「いいえ、どうぞ。あっちの湯へ入りますから」と、島村はとっさに言って、裸のまま乱れ籠を抱えて隣りの女湯の方へ行った。女はむろん夫婦面でついて来た。島村は黙って後も見ずに温泉へ飛び込んだ。安心して高笑いがこみ上げて来るので、湯口に口をあてて荒っぽく嗽いをした。
部屋に戻ってから、女は横にした首を軽く浮かして鬢を小指で持ち上げながら、
「悲しいわ」と、ただひとこと言っただけであった。
女が黒い眼を半ば開いているのかと、近々のぞきこんでみると、それは睫毛であった。
神経質な女は一睡もしなかった。
固い女帯をしごく音で、島村は目が覚めたらしかった。
「早く起して悪かったわ。まだ暗いわね。ねえ、見て下さらない?」と、女は電燈を消した。
「私の顔が見える? 見えない?」
「見えないよ。まだ夜が明けないじゃないか」
「嘘よ。よく見て下さらなければ駄目よ。どう?」と、女は窓を明け放して、
「いけないわ。見えるわね。私帰るわ」
明け方の寒さに驚いて、島村が枕から頭を上げると、空はまだ夜の色なのに、山はもう朝であった。
「そう、大丈夫。今は農家が暇だから、こんなに早く出歩く人はないわ。でも山へ行く人があるかしら」と、ひとりごとを言いながら、女は結びかかった帯をひきずって歩き、
「今の五時の下りでお客がなかったわね。宿の人はまだまだ起きないわ」
帯を結び終ってからも、女は立ったり坐ったり、そうしてまた窓の方ばかり見て歩き廻った。それは夜行動物が朝を恐れて、いらいら歩き廻るような落ちつきのなさだった。妖しい野性がたかぶって来るさまであった。
そうするうちに部屋のなかまで明るんで来たか、女の赤い頬が目立って来た。島村は驚くばかりあざやかな赤い色に見とれて、
「頬っぺたが真赤じゃないか、寒くて」
「寒いんじゃないわ。白粉を落したからよ。私は寝床へ入るとすぐ、足の先までぽっぽして来るの」と、枕もとの鏡台に向って、
「とうとう明るくなってしまったわ。帰りますわ」
島村はその方を見て、ひょっと首を縮めた。鏡の奥が真白に光っているのは雪である。その雪のなかに女の真赤な頬が浮んでいる。なんともいえぬ清潔な美しさであった。
もう日が昇るのか、鏡の雪は冷たく燃えるような輝きを増して来た。それにつれて雪に浮ぶ女の髪もあざやかな紫光りの黒を強めた。
雪を積らせぬためであろう、湯槽から溢れる湯を俄づくりの溝で宿の壁沿いにめぐらせてあるが、玄関先では浅い泉水のように拡がっていた。黒く逞しい秋田犬がそこの踏石に乗って、長いこと湯を舐めていた。物置から出して来たらしい、客用のスキイが干し並べてある、そのほのかな黴の匂いは、湯気で甘くなって、杉の枝から共同湯の屋根に落ちる雪の塊も、温かいもののように形が崩れた。
やがて年の暮から正月になれば、あの道が吹雪で見えなくなる。山袴にゴムの長靴、マントにくるまり、ヴェエルをかぶって、お座敷へ通わねばならぬ。その頃の雪の深さは一丈もある。そう言って、丘の上の宿の窓から、女が夜明け前に見下していた坂道を、島村は今下りて行くのであったけれども、道端に高く干した襁褓の下に、国境の山々が見えて、その雪の輝きものどかであった。青い葱はまだ雪に埋もれてはいなかった。
田圃で村の子供がスキイに乗っていた。
街道の村へ入ると、静かな雨滴のような音が聞えていた。
軒端の小さい氷柱が可愛く光っていた。
屋根の雪を落す男を見上げて、
「ねえ、ついでにうちのも少し落してくれない?」と、湯帰りの女が眩しそうに濡れ手拭で額を拭いた。スキイ季節を目指して早くも流れこんで来た女給であろう。隣家はガラス窓の色絵も古び、屋根のゆがんだカフエであった。
たいていの家の屋根は細かい板で葺いて、上に石が置き並べてある。それらの円い石は日のあたる半面だけ雪のなかに黒い肌を見せているが、その色は湿ったというよりも永の風雪にさらされた黒ずみのようである。そして家々はまたその石の感じに似た姿で、低い屋並みが北国らしくじっと地に伏したようであった。
子供の群が溝の氷を抱き起して来ては、道に投げて遊んでいた。脆く砕け飛ぶ際に光るのが面白いのだろう。日光のなかに立っていると、その氷の厚さが嘘のように思われて、島村はしばらく眺め続けた。
十三、四の女の子が一人石垣にもたれて、毛糸を編んでいた。山袴に高下駄を履いていたが、足袋はなく、赤らんだ素足の裏に皹が見えた。傍の粗朶の束に乗せられて、三歳ばかりの女の子が無心に毛糸の玉を持っていた。小さい女の子から大きい女の子へ引っぱられる一筋の灰色の古毛糸も暖かく光っていた。
七、八軒先きのスキイ製作所から鉋の音が聞える。その反対側の軒陰に芸者が五、六人立話をしていた。今朝になって宿の女中からその芸名を聞いた駒子もそこにいそうだと思うと、やっぱり彼女は彼の歩いて来るのを見ていたらしく、一人生真面目な顔つきであった。きっと真赤になるにきまっている、なにげない風を装ってくれるようにと、島村が考える暇もなく、駒子はもう咽まで染めてしまった。それなら後向きになればいいのに、窮屈そうに眼を伏せながら、しかも彼の歩みにつれて、その方へ少しずつ顔を動かして来る。
島村も頬が火照るようで、さっさと通り過ぎると、すぐに駒子が追っかけて来た。
「困るわ、あんなとこお通りになっちゃ」
「困るって、こっちこそ困るよ。あんなに勢揃いしてられると、恐ろしくて通れんね。いつもああかい」
「そうね、おひる過ぎは」
「顔を赤くしたり、ばたばた追っかけて来たりすれば、なお困るじゃないか」
「かまやしない」と、はっきり言いながら駒子はまた赤くなると、その場に立ち止まってしまって、道端の柿の木につかまった。
「うちへ寄っていただこうと思って、走って来たんですわ」
「君の家がここか」
「ええ」
「日記を見せてくれるなら、寄ってもいいね」
「あれは焼いてから死ぬの」
「だって君の家、病人があるんだろう」
「あら。よく御存じね」
「昨夜、君も駅へ迎えに出てたじゃないか、濃い青のマントを着て。僕はあの汽車で、病人のすぐ近くに乗って来たんだよ。実に真剣に、実に親切に、病人の世話をする娘さんが付き添ってたけど、あれ細君かね。ここから迎えに行った人? 東京の人? まるで母親みたいで、僕は感心して見てたんだ」
「あんた、そのこと昨夜どうして私に話さなかったの。なぜ黙ってたの」と、駒子は気色ばんだ。
「細君かね」
しかしそれには答えないで、
「なぜ昨夜話さなかったの。おかしな人」
島村は女のこういう鋭さを好まなかった。けれども女をこんな風に鋭くするわけは、島村にも駒子にもないはずだと思われるので、それでは駒子の性格の現われかとも見られたが、とにかく繰り返して突っ込まれると、彼は急所にさわられたような気はして来るのであった。今朝山の雪を写した鏡のなかに駒子を見た時も、むろん島村は夕暮の汽車の窓ガラスに写っていた娘を思い出したのだったのに、なぜそれを駒子に話さなかったのだろうか。
「病人がいたっていいですわ。私の部屋へは誰も上って来ませんわ」と、駒子は低い石垣のなかへ入った。
右手は雪をかぶった畑で、左には柿の木が隣家の壁沿いに立ち並んでいた。家の前は花畑らしく、その真中の小さい蓮池の氷は縁に持ち上げてあって、緋鯉が泳いでいた。柿の木の幹のように家も朽ち古びていた。雪の斑らな屋根は板が腐って軒に波を描いていた。
土間へ入ると、しんと寒くて、なにも見えないでいるうちに、梯子を登らせられた。それはほんとうに梯子であった。上の部屋もほんとうに屋根裏であった。
「お蚕さまの部屋だったのよ。驚いたでしょう」
「これで、酔っ払って帰って、よく梯子を落ちないね」
「落ちるわ。だけどそんな時は下の火燵に入ると、たいていそのまま眠ってしまいますわ」と、駒子は火燵蒲団に手を入れてみて、火を取りに立った。
島村は不思議な部屋のありさまを見廻した。低い明り窓が南に一つあるきりだけれども、桟の目の細かい障子は新しく貼り替えられ、それに日射しが明るかった。壁にもたんねんに半紙が貼ってあるので、古い紙箱に入った心地だが、頭の上は屋根裏がまる出しで、窓の方へ低まって来ているものだから、黒い寂しさがかぶさったようであった。壁の向側はどうなってるのだろうと考えると、この部屋が宙に吊るさっているような気がして来て、なにか不安定であった。しかし壁や畳は古びていながら、いかにも清潔であった。
蚕のように駒子も透明な体でここに住んでいるかと思われた。
置火燵には山袴とおなじ木綿縞の蒲団がかかっていた。箪笥は古びているが、駒子の東京暮しの名残か、柾目のみごとな桐だった。それと不似合に粗末な鏡台だった。朱塗の裁縫箱がまた贅沢なつやを見せていた。壁に板を段々に打ちつけたのは、本箱なのであろう、めりんすのカアテンが垂らしてあった。
昨夜の座敷着が壁にかかって、襦袢の赤い裏を開いていた。
駒子は十能を持って、器用に梯子を上って来ると、
「病人の部屋からだけれど、火はきれいだって言いますわ」と、結いたての髪を伏せながら、火燵の灰を掻き起して、病人は腸結核で、もう故郷へ死にに帰ったのだと話した。
故郷とはいえ、息子はここで生れたのではない。ここは母の村なのだ。母は港町で芸者を勤め上げた後も、踊の師匠としてそこにとどまっていたが、まだ五十前で中風をわずらい、療養かたがたこの温泉へ帰って来た。息子は小さい時から機械が好きで、せっかく時計屋に入っていたから、港町に残して置いたところ、間もなく東京に出て、夜学に通っていたらしい。体の無理が重なったのだろう。今年二十六という。
それだけを駒子は一気に話したけれども、息子を連れて帰った娘がなにものであるか、どうして駒子がこの家にいるのかというようなことには、やはり一言も触れなかった。
しかしそれだけでも、宙に吊るされたようなこの部屋の工合では、駒子の声が八方へ洩れそうで、島村は落ちついていられなかった。
門口を出しなに、ほの白いものが眼について振り返ると、桐の三味線箱だった。実際よりも大きく長いものに感じられて、これを座敷へ担いで行くなんて嘘のような気がしていると、煤けた襖があいて、
「駒ちゃん、これを跨いじゃいけないの?」
澄み上って悲しいほど美しい声だった。どこかから木魂が返って来そうであった。
島村は聞き覚えている、夜汽車の窓から雪のなかの駅長を呼んだ、あの葉子の声である。
「いいわ」と、駒子が答えると、葉子は山袴でひょいと三味線を跨いだ。ガラスの溲瓶をさげていた。
駅長と知合いらしい昨夜の話しぶりでも、この山袴でも、葉子がここらあたりの娘なことは明らかだが、派手な帯が半ば山袴の上に出ているので、山袴の蒲色と黒とのあらい木綿縞はあざやかに引き立ち、めりんすの長い袂も同じわけでなまめかしかった。山袴の股は膝の少し上で割れているから、ゆっくり膨らんで見え、しかも硬い木綿がひきしまって見え、なにか安らかであった。
しかし葉子はちらっと刺すように島村を一目見ただけで、ものも言わずに土間を通り過ぎた。
島村は表に出てからも、葉子の目つきが彼の額の前に燃えていそうでならなかった。それは遠いともし火のように冷たい。なぜならば、汽車の窓ガラスに写る葉子の顔を眺めているうちに、野山のともし火がその彼女の顔の向うを流れ去り、ともし火と瞳とが重なって、ぽうっと明るくなった時、島村はなんともいえぬ美しさに胸が顫えた、その昨夜の印象を思い出すからであろう。それを思い出すと、鏡のなかいっぱいの雪のなかに浮んだ、駒子の赤い頬も思い出されて来る。
そうして足が早くなった。小肥りの白い足にかかわらず、登山を好む島村は山を眺めながら歩くと放心状態となって、知らぬうちに足が早まる。いつでもたちまち放心状態に入りやすい彼にとっては、あの夕景色の鏡や朝雪の鏡が、人工のものとは信じられなかった。自然のものであった。そして遠い世界であった。
今出て来たばかりの駒子の部屋までが、もうその遠い世界のように思われる。そういう自分にさすが驚いて、坂を登りつめると、女按摩が歩いていた。島村はなにかつかまえるように、
「按摩さん、揉んでもらえないかね」
「そうですね。今何時ですかしら」と、竹の杖を小脇に抱えると、右手で帯の間から蓋のある懐中時計を出して、左の指先で文字盤をさぐりながら、
「二時三十五分過ぎでございますね。三時半に駅の向うへ行かんなりませんけれども、少し後れてもいいかな」
「よく時計の時間が分るね」
「はい、ガラスが取ってございますから」
「さわると字が分るかね」
「字は分りませんけれども」と、女持ちには大きい銀時計をもう一度出して蓋をあけると、ここが十二時ここが六時、その真中が三時という風に指で抑えて見せ、
「それから割り出して、一分までは分らなくても、二分とはまちがいません」
「そうかね。坂道なんか辷らないかね」
「雨が降れば娘が迎えに来てくれます。夜は村の人を揉んで、もうここへは登って来ません。亭主が出さないのだと、宿の女中さんが言うからかないませんわ」
「子供さんはもう大きいの?」
「はい。上の女は十三になります」などと話しながら部屋に来て、しばらく黙って揉んでいたが、遠い座敷の三味線の音に首を傾けた。
「誰かな」
「君は三味線の音で、どの芸者か皆分るかい」
「分る人もあります。分らんのもあります。旦那さん、ずいぶん結構なお身分で、柔かいお体でございますね」
「凝ってないだろう」
「凝って、首筋が凝っております。ちょうどよい工合に太ってらっしゃいますが、お酒は召し上りませんね」
「よく分るな」
「ちょうど旦那さまと同じような姿形のお客さまを、三人知っております」
「至極平凡な体だがね」
「なんでございますね、お酒を召し上らないと、ほんとうに面白いということがございませんね、なにもかも忘れてしまう」
「君の旦那さんは飲むんだね」
「飲んで困ります」
「誰だか下手な三味線だね」
「はい」
「君は弾くんだろう」
「はい。九つの時から二十まで習いましたけれど、亭主を持ってから、もう十五年も鳴らしません」
盲は年より若く見えるものであろうかと島村は思いながら、
「小さい時に稽古したのは確かだね」
「手はすっかり按摩になってしまいましたけれど、耳はあいております。こうやって芸者衆の三味線を聞いてますと、じれったくなったりして、はい、昔の自分のような気がするんでございましょうね」と、また耳を傾けて、
「井筒屋のふみちゃんかしら。一番上手な子と一番下手な子は、一番よく分りますね」
「上手な人もいるかい」
「駒ちゃんという子は、年が若いけれど、この頃達者になりましたねえ」
「ふうん」
「旦那さん、御存じなんですね。そりゃ上手と言っても、こんな山ん中でのことですから」
「いや知らないけれど、師匠の息子が帰るのと、昨夜同じ汽車でね」
「おや、よくなって帰りましたか」
「よくないようだったね」
「はあ? あの息子さんが東京で長患いしたために、その駒子という子がこの夏芸者に出てまで、病院の金を送ったそうですが、どうしたんでしょう」
「その駒子って?」
「でもまあ、尽すだけ尽しておけば、いいなずけだというだけでも、後々までねえ」
「いいなずけって、ほんとうのことかね」
「はい。いいなずけだそうでございますよ。私は知りませんが、そういう噂でございますね」
温泉宿で女按摩から芸者の身の上を聞くとは、あまりに月並で、かえって思いがけないことであったが、駒子がいいなずけのために芸者に出たというのも、あまりに月並な筋書で、島村は素直にのみこめぬ心地であった。それは道徳的な思いに突き当ったせいかもしれなかった。
彼は話に深入りして聞きたく思いはじめたけれども、按摩は黙ってしまった。
駒子が息子のいいなずけだとして、葉子が息子の新しい恋人だとして、しかし息子はやがて死ぬのだとすれば、島村の頭にはまた徒労という言葉が浮んで来た。駒子がいいなずけの約束を守り通したことも、身を落してまで療養させたことも、すべてこれ徒労でなくてなんであろう。
駒子に会ったら、頭から徒労だと叩きつけてやろうと考えると、またしても島村にはなにかかえって彼女の存在が純粋に感じられて来るのだった。
この虚偽の麻痺には、破廉恥な危険が匂っていて、島村はじっとそれを味わいながら、按摩が帰ってからも寝転んでいると、胸の底まで冷えるように思われたが、気がつけば窓を明け放したままなのであった。
山峡は日陰となるのが早く、もう寒々と夕暮色が垂れていた。そのほの暗さのために、まだ西日が雪に照る遠くの山々はすうっと近づいて来たようであった。
やがて山それぞれの遠近や高低につれて、さまざまの襞の陰を深めて行き、峰にだけ淡い日向を残す頃になると、頂の雪の上は夕焼空であった。
村の川岸、スキイ場、社など、ところどころに散らばる杉木立が黒々と目立ち出した。
島村は虚しい切なさに曝されているところへ、温かい明りのついたように駒子が入って来た。
スキイ客を迎える準備の相談会がこの宿にある。その後の宴会に呼ばれたと言った。火燵に入ると、いきなり島村の頬を撫で廻しながら、
「今夜は白いわ。変だわ」
そして揉みつぶすように柔かい頬の肉を掴んで、
「あんたは馬鹿だ」
もう少し酔っているらしかったが、宴会を終えて来た時は、
「知らん。もう知らん。頭痛い。頭痛い。ああ、難儀だわ、難儀」と、鏡台の前に崩れ折れると、おかしいほど一時に酔いが顔へ出た。
「水飲みたい、水ちょうだい」
顔を両手で抑えて、髪の毀れるのもかまわずに倒れていたが、やがて坐り直してクリイムで白粉を落すと、あまりに真赤な顔が剥き出しになったので、駒子も自分ながら楽しげに笑い続けた。面白いほど早く酒が醒めて来た。寒そうに肩を顫わせた。
そして静かな声で、八月いっぱい神経衰弱でぶらぶらしていたなどと話しはじめた。
「気ちがいになるのかと心配だったわ。なにか一生懸命に思いつめてるんだけれど、なにを思いつめてるか、自分によく分らないの。怖いでしょう。ちっとも眠れないし、それでお座敷へ出た時だけしゃんとするのよ。いろんな夢を見たわ。御飯もろくに食べられないものね。畳へね、縫針を突き刺したり抜いたり、そんなこといつまでもしてるのよ、暑い日中にさ」
「芸者に出たのは何月」
「六月。もしかしたら私、今頃は浜松へ行ってたかしれないのよ」
「世帯を持って?」
駒子はうなずいた。浜松の男に結婚してくれと追い廻されたが、どうしても男が好きになれないで、ずいぶん迷ったと言った。
「好きでないものを、なにも迷うことないじゃないか」
「そうはいかないわ」
「結婚て、そんな力があるかな」
「いやらしい。そうじゃないけれど、私は身のまわりがきちんとかたづいてないと、いられないの」
「うん」
「あんた、いい加減な人ね」
「だけど、その浜松の人となにかあったのかい」
「あれば迷うことないじゃないの」と、駒子は言い放って、
「でも、お前がこの土地にいる間は、誰とも結婚させない。どんなことしても邪魔してやるって言ったわよ」
「浜松のような遠くにいてね。君はそんなことを気にしてるの」
駒子はしばらく黙って、自分の体の温かさを味うような風にじっと横たわっていたが、ふいとなにげなく、
「私妊娠していると思ってたのよ。ふふ、今考えるとおかしくって、ふふふ」と、含み笑いしながら、くっと身をすくめると、両の握り拳で島村の襟を子供みたいに掴んだ。
閉じ合わした濃い睫毛がまた、黒い目を半ば開いているように見えた。
翌る朝、島村が目を覚ますと、駒子はもう火鉢へ片肘突いて古雑誌の裏に落書していたが、
「ねえ、帰れないわ。女中さんが火を入れに来て、みっともない、驚いて飛び起きたら、もう障子に日があたってるんですもの。昨夜酔ってたから、とろとろと眠っちゃったらしいわ」
「幾時」
「もう八時」
「お湯へ行こうか」と、島村は起き上った。
「いや、廊下で人に会うから」と、まるでおとなしい女になってしまって、島村が湯から帰った時は、手拭を器用にかぶって、かいがいしく部屋の掃除をしていた。
机の足や火鉢の縁まで癇性に拭いて、灰を掻きならすのがもの馴れた様子であった。
島村が火燵へ足を入れたままごろごろして煙草の灰を落すと、それを駒子はハンカチでそっと拭き取っては、灰皿をもって来た。島村は朝らしく笑い出した。駒子も笑った。
「君が家を持ったら、亭主は叱られ通しだね」
「なにも叱りゃしないじゃないの。洗濯するものまで、きちんと畳んでおくって、よく笑われるけれど、性分ね」
「箪笥のなかを見れば、その女の性質が分るって言うよ」
部屋いっぱいの朝日に温まって飯を食いながら、
「いいお天気。早く帰って、お稽古をすればよかったわ。こんな日は音がちがう」
駒子は澄み深まった空を見上げた。
遠い山々は雪が煙ると見えるような柔かい乳色につつまれていた。
島村は按摩の言葉を思い合わせて、ここで稽古をすればいいと言うと、駒子はすぐに立ち上って、着替えといっしょに長唄の本を届けるように家へ電話をかけた。
昼間見たあの家に電話があるのかと思うと、また島村の頭には葉子の眼が浮んで来て、
「あの娘さんが持って来るの?」
「そうかもしれないわ」
「君はあの、息子さんのいいなずけだって?」
「あら。いつそんなことを聞いたの」
「昨日」
「おかしな人。聞いたら聞いたで、なぜ昨日そう言わなかったの」と、しかし今度は昨日の昼間とちがって、駒子は清潔に微笑んでいた。
「君を軽蔑してなければ、言いにくいさ」
「心にもないこと。東京の人は嘘つきだから嫌い」
「それ、僕が言い出せば、話をそらすじゃないか」
「そらしゃしないわ。それで、あんたそれをほんとうにしたの?」
「ほんとうにした」
「またあんた嘘言うわ。ほんとうにしないくせして」
「そりゃ、のみこめない気はしたさ。だけど、君がいいなずけのために芸者になって、療養費を稼いでいると言うんだからね」
「いやらしい、そんな新派芝居みたいなこと。いいなずけは嘘よ。そう思ってる人が多いらしいわ。別に誰のために芸者になったってわけじゃないけれど、するだけのことはしなければいけないわ」
「謎みたいなことばかり言ってる」
「はっきり言いますわ。お師匠さんがね、息子さんと私といっしょになればいいと、思った時があったかもしれないの。心のなかだけのことで、口には一度も出しゃしませんけれどね。そういうお師匠さんの心のうちは、息子さんも私も薄々知ってたの。だけど、二人は別になんでもなかった。ただそれだけ」
「幼馴染だね」
「ええ、でも、別れ別れに暮して来たのよ。東京へ売られて行く時、あの人がたった一人見送ってくれた。一番古い日記の一番初めに、そのことが書いてあるわ」
「二人ともその港町にいたら、今頃は一緒になってたかもしれないね」
「そんなことはないと思うわ」
「そうかねえ」
「人のこと心配しなくてもいいわよ。もうじき死ぬから」
「それによそへ泊るのなんかよくないね」
「あんた、そんなこと言うのがよくないのよ。私の好きなようにするのを、死んで行く人がどうして止められるの?」
島村は返す言葉がなかった。
しかし、駒子がやはり葉子のことに一言も触れないのは、なぜであろうか。
また葉子にしても、汽車の中でまで幼い母のように、我を忘れてあんなにいたわりながらつれて帰った男のなにかである駒子のところへ、朝になって着替えを持って来るのは、どういう思いであろうか。
島村が彼らしく遠い空想をしていると、
「駒ちゃん、駒ちゃん」と、低くても澄み通る、あの葉子の美しい呼び声が聞えた。
「はい、御苦労さま」と、駒子は次の間の三畳へ立って行って、
「葉子さんが来てくれたの? まあ、こんなにみんな、重かったのに」
葉子は黙って帰ったらしかった。
駒子は三の糸を指ではじき切って附け替えてから、調子を合わせた。その間にもう彼女の音の冴えは分ったが、火燵の上に嵩張った風呂敷包を開いてみると、普通の稽古本の外に、杵屋弥七の文化三味線譜が二十冊ばかり入っていたので、島村は意外そうに手に取って、
「こんなもので稽古したの?」
「だって、ここにはお師匠さんがないんですもの。しかたがないわ」
「うちにいるじゃないか」
「中風ですわ」
「中風だって、口で」
「その口もきけなかったの。まだ踊は、動く方の左手で直せるけれど、三味線は耳がうるさくなるばっかり」
「これで分るのかね」
「よく分るわ」
「素人ならとにかく芸者が、遠い山のなかで、殊勝な稽古をしてるんだから、音譜屋さんも喜ぶだろう」
「お酌は踊が主だし、それからも東京で稽古させてもらったのは、踊だったの。三味線はほんの少しうろ覚えですもの、忘れたらもう浚ってくれる人もなし、音譜が頼りですわ」
「唄は?」
「いや、唄は。そう、踊の稽古の時に聞き馴れたのは、どうにかいいけれど、新しいのはラジオや、それからどこかで聞き覚えて、でもどうだか分らないわ。我流が入ってて、きっとおかしいでしょう。それに馴染みの人の前では、声が出ないの。知らない人だと、大きな声で歌えるけれど」と、少しはにかんでから、唄を待つ風に、さあと身構えして、島村の顔を見つめた。
島村ははっと気押された。
彼は東京の下町育ちで、幼い時から歌舞伎や日本踊になじむうちに長唄の文句くらいは覚え、自ずと耳慣れているが、自分で習いはしなかった。長唄といえばすぐ踊の舞台が思い浮び、芸者の座敷を思い出さぬという風である。
「いやだわ。一番肩の張るお客さま」と、駒子はちらっと下唇を噛んだが、三味線を膝に構えると、それでもう別の人になるのか、素直に稽古本を開いて、
「この秋、譜で稽古したのね」
勧進帳であった。
たちまち島村は頬から鳥肌立ちそうに涼しくなって、腹まで澄み通って来た。たわいなく空にされた頭のなかいっぱいに、三味線の音が鳴り渡った。全く彼は驚いてしまったと言うよりも叩きのめされてしまったのである。敬虔の念に打たれた、悔恨の思いに洗われた。自分はただもう無力であって、駒子の力に思いのまま押し流されるのを快いと身を捨てて浮ぶよりしかたがなかった。
十九や二十の田舎芸者の三味線なんか高が知れてるはずだ、お座敷だのにまるで舞台のように弾いてるじゃないか、おれ自身の山の感傷に過ぎんなどと、島村は思ってみようとしたし、駒子はわざと文句を棒読みしたり、ここはゆっくり、ここはめんどくさいと言って飛ばしたりしたが、だんだん憑かれたように声も高まって来ると、撥の音がどこまで強く冴えるのかと、島村はこわくなって、虚勢を張るように肘枕で転がった。
勧進帳が終ると島村はほっとして、ああ、この女はおれに惚れているのだと思ったが、それがまた情なかった。
「こんな日は音がちがう」と、雪の晴天を見上げて、駒子が言っただけのことはあった。空気がちがうのである。劇場の壁もなければ、聴衆もなければ、都会の塵埃もなければ、音はただ純粋な冬の朝に澄み通って、遠くの雪の山々まで真直ぐに響いて行った。
いつも山峡の大きい自然を、自らは知らぬながら相手として孤独に稽古するのが、彼女の習わしであったゆえ、撥の強くなるは自然である。その孤独は哀愁を踏み破って、野性の意力を宿していた。幾分下地があるとは言え、複雑な曲を音譜で独習し、譜を離れて弾きこなせるまでには、強い意志の努力が重なっているにちがいない。
島村には虚しい徒労とも思われる、遠い憧憬とも哀れまれる、駒子の生き方が、彼女自身への価値で、凛と撥の音に溢れ出るのであろう。
細かい手の器用なさばきは耳に覚えていず、ただ音の感情が分る程度の島村は、駒子にはちょうどよい聞き手なのであろう。
三曲目に都鳥を弾きはじめた頃は、その曲の艶な柔らかさのせいもあって、島村はもう鳥肌立つような思いは消え、温かく安らいで、駒子の顔を見つめた。そうするとしみじみ肉体の親しみが感じられた。